何が現地語なのか?(東南アジアのライトノベル)

ということで、10月から11月にかけては、インドネシアとマレーシアの本屋巡りをしながら「現地語のライトノベル」探しをさせていただいたわけですが、タイなどに比べるとライトノベル自体の存在感が薄いことを実感しました。マレーシアだと英語や中国語翻訳で入っているけどインドネシアではそれも薄い。マレーシア語やインドネシア語翻訳では、ほとんど無いに等しい(マレーシア語の『古典部』シリーズの翻訳のみ発見。)

ここで白状しなければならいのですが、私はインドネシアやマレーシアの言語事情を軽く考えすぎていました。マレーシアの「現地語」はマレーシア語であり、インドネシアのそれはインドネシア語である(そしてインドネシア語とマレーシア語とほとんど一緒の言語である)程度にしか考えていなかったのです。ところがマレーシアでのマルチリンガルな言語事情を目の当たりにして、何が「現地語」なのかは、よくよく考えておく必要があったと反省しました。

今回の訪問国に限らず多くのアジア・アフリカの国々に共通する話なのですが、植民地支配を受けた地域はマルチリンガルな社会であり、言語はおおよそ3層構造になっているとされます。まず、家庭内で使われている母語の層があります。アジアやアフリカはこれが結構細かく分かれていて、部族や氏族ごとに違う母語が使われている場合が多い。インドネシアでは500以上の言語が話されているといいますし、インドでは約1000の言語が今でも話されているとされます。
これに対して、地域共通語(リンガ・フランカ)というのがあって、社会生活や学校教育で用いられます。フィリピン語(フィリピーナ)もタガログ語という共通語を公用語として採用したものです。インドネシアの場合はバハサと呼ばれる共通語があって、インドネシア語と呼ばれる公用語は、このバハサを指します。

地域共通語はその国の有力地域で使われている言葉が使われることが多いのですが(フィリピンのタガログ語はその一例)、例外もあります。例えば、インドネシアで用いられる言語で母語話者が最も多いのはジャワ語であって(7500万人)、バハサ(もしくはその元となったマレー語系)を母語としている人達(1700〜3000万人)よりもはるかに多い。つまり、ジャワ島での「現地語」とはインドネシア語ではなくてジャワ語という方が正しいのかもしれません。加えていうなら、ジャワ語は古い歴史を持ち、古典文芸も書かれているという、かなり格調の高い言語だし、ジャワ語を話すジャワ人はインドネシアという国の中枢を握っているマジョリティーです。

<インドネシアの言語マップ>

この他に旧宗主国の言語があり、高等教育はこの言葉が使われることが多いし、役所の手続きなどにも使われます。マレーシアはイギリス領でしたから英語がこれに該当し、インドネシはオランダ領だったのでオランダ語がこれに該当します。

このように多くの地域では人々の言語環境は本質的にマルチリンガルです。日本のようにかなり早い時期に言語が統一され、西欧列強による植民地化を免れ、明治期のインテリが頑張って翻訳したおかげで西欧語を使わずに高等教育することが可能になっているという、モノリンガルな国の中にいると見えにくい話です。しかし、アジアを旅していれば、部族語と地域共通語を3つ以上操る人は普通に見ますし、インテリともなると日本人以上に達者な西欧語を喋っているのは普通の風景です。

このマルチリンガルな状態を「書き言葉」の観点から考えてみましょう。ライトノベルは10代のための娯楽小説なので、どうしても「読む」という行為が必要となるからです。まず、多くの部族語や氏族語は書き言葉としては未熟です。話者が少ない場合、正書法が確立していないことも多く、出版物も極めて限られるというか、無いに等しい場合がほとんどです。つまり、多くの母語は書物と無縁の言葉なのです。

地域共通語ともなると、ある程度正書法も確立されて、出版物もそこそこ出て来ますけれど、これは各国の事情に強く依存します。私が知っている東チモールはやや極端な例ですが、2002年独立のこの国では共通語(公用語)のテトゥン語の正書法が未だに定まっていません。声に出して読み上げれば誰でも理解できるのですが、綴りがまちまちなままなのです。こんな状態ですから、出版物も極めて限られたままです。つまり書き言葉としての共通語というのは、政府などが時間をかけて教育などを通じて作り出していくものであり、これは各国の事情に大きく依存するのです。

旧宗主国言語については独立後も高等教育などで残り続けるものの、やがて地域共通語が力をつけてくると、それに譲るようになります。また最近では、国際共通語としての英語が旧宗主国言語にとって代わる例も多く見受けられます。

インドネシアの場合は、独立時の理念に従い敢えてマジョリティーのジャワ語を公用語とはせずに、バハサ(共通語)を採用してその教育と普及にかなり力を入れました。とはいうものの、ジャワ語などの民族語教育も行われていますし、どんな庶民でも母語とバハサのバイリンガルです。旧宗主国のオランダ語は影を潜めたものの大学によっては英語で教育が行われているといいますから、インテリは英語を加えた3言語話者が当たり前ということになります。これに加えて、マレーシアほどではないけれども中国系国民の存在があり、中国語の書籍も本屋には結構あります。

マレーシアの場合は、マレー系(マレーシア語)が65%、中華系(北京語、福建語、広東語、、、)25%、インド系(タミル語他)8%という人種・母語構成です。マレーシアもまた多くの言語が母語として話されていたのですが、それらは消滅しつつあるるのだそうです。過半数の人はマレーシア語が母語ではあるものの、人口の1/4を占める中国語話者がいるので、母語以外にマレーシア語や中国語を話せる人はかなり多いし、そこに旧宗主国言語である英語が大きな存在感を持っていて、多くの人が英語を話すことができます。要するにマレーシアは、相当なマルチリンガルな社会です。中国語は話し言葉こそバラバラですが書き言葉は統一されていますので相当な存在感があります。この結果としてマレーシア語と英語と中国語という3つの言語が本屋の中では同等の勢力を持っていると思って良い。

<マレーシアの民族構成>

(インドネシア語(バハサ)はマレー語が元になっているのでマレーシア語とインドネシア語はほとんど同じ言語です。ただ、政治的に両者を同じ言語として扱う動きはありませんし、出版も別々に行われています。)

モノリンガルな国から来た人間として、ついついインドネシア語やマレーシア語のライトノベルを探したのですが、マルチリンガルな環境というものをもう少し考慮してから調査にあたるべきだったと猛省しています。例えば、私がジャカルタの本屋さんでみていた「インドネシア語の本」ですが、ひょっとしたらジャワ語の本もあったのかもしれません。ジャワ語の出版物はかなり限られているらしいので、その可能性は低そうなのですが、それでもそこは意識しておくべきでした。

さて、こうした言語事情を前提にして考えるべきなのは、「ライトノベル出版が成立するほどに、十分な読書集団が形成されているのか?」、そして「その読書集団はその言葉で娯楽小説を読みたいと思うほどに言語習得できているのか?」という問題です。

前述したように、多くの言葉は話者自体が多くありませんし、書き言葉としての成熟度が問題になりますが逆にいうと、その条件を満たす言葉が複数になることはあり得るのです。マレーシアの場合は、マレーシア語、中国語がこれに該当し、加えて英語教育がかなりしっかりと行われた結果、英語読者も結構多い。つまり、マレーシアの「現地語」とはマレーシア語・中国語・英語であると考えておくべきなのです。インドネシアであれば、バハサとジャワ語がこれに該当し、他にも候補になる言語(スンダ語など)はあるのかもしれません。

そして十代の読者層にとっての「母語でない言語で読む小説」とはどんなものなのか、想像力を巡らしておくことは必要になるるでしょう。一言でマルチリンガルといっても、皆が皆、全ての言語を母語並みに操れるというわけでは無いのです。ことに書き言葉は習得にそれなりの労力を要しますので、マルチリンガルだからといって誰もがスラスラと多種にわたる言語の本を読んでいるわけでも無いらしい。私の知り合いのインドネシア人には、英語での会話は達者だけれども、英語メールの返事を絶対に書いてくれないという人がいました。話し言葉を操る能力と、書き言葉を操る能力は別なのです。

ジャワ語を母語とするインドネシアの青少年にとって、バハサの娯楽小説というのは、どの程度とっつきやすいものなのか。彼らにとってバハサとは、学校で使われ、テレビで流れる「少し改まった言葉」なのであり、友達同士でふざけあったりダラダラとお喋りする言語はジャワ語なのです。そうなると、様々な手口で書き手と読者の近さ演出し、親しみやすさを信条とするライトノベルにとって、バハサは最適な言語になるのでしょうか?

あるいは、英語を喋っているマレーシア人にとって英語のライトノベルは気楽に読める娯楽小説なのでしょうか?中国語も話せるマレー系住人は中国語の軽小説を気楽に読むことができるのか?その逆にマレーシア語も話せる中国系住人にとってマレーシア語の娯楽小説は気軽に読めるものなのか?

ライトノベルの出版が成立するためには、ある程度のお金を持っている(お小遣いをもらっている)10代の読者層が一定数以上存在しなくてはならない。そのように私は思っていたのですが、それ以前に「気軽に読める言葉で小説が出版されるなどの環境が整っているのか」という問題があるのです。当たり前といえば当たり前なのですが、モノリンガルな日本からは案外に見落としやすい点なので、長々と書いてしまいました。

(報告:太田)

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