ということで、米仏韓台中のライトノベル翻訳事情を見てきましたが、東アジアと欧米ではっきり差が出ています。東アジアは、総じて日本のライトノベルがそのまま受け入れられているように見えますが、欧米はかなり苦労しています。表紙のイラストが差し替えられるのは当たり前ですし、大方は第1~2巻が出た後の出版が続いていません。シリーズで出版することに成功しているのはYenPressぐらいです。TokyoPopも『スレイヤーズ』や『フルメタルパニック』などのシリーズ刊行を行いましたが、会社自体が潰れましたし、中古市場を見る限りではあまり売れた形跡がありません。どこにその差はあるのでしょうか。
マンガやアニメを中心とした日本のサブカルチャーが諸外国でCool Japanとして持て囃されていて、J-popもコスプレも大人気だなどという愛国心を擽るような報道を聞いていると、似たようなジャンルであるライトノベルも一緒に受け入れられるだろうと考えがちなのですが、事情はそんな単線的なものではないらしいのです。今回は、ライトノベルから脱線して、最後にライトノベルに戻ってきます。
そもそもマンガやアニメの何がそんなに”Cool!”(かっこいい)なのか。このあたりもマスコミが、盛んにオタク外国人にインタビューして「絵がきれいだし、物語も複雑だ。単純で子供っぽいアメリカのコミックだとかディズニーのアニメなんかとは全然違う」みたいな回答を引き出しています。しかし、それだけなのでしょうか。ファンが口にする感想は、それはそれで正直なものですが、言語化されていないところにも結構重要な要因があるのではないでしょうか。
今回紹介するのは、スコット・マクラウドというコミック作家で、“Understanding Comics”(1994), “Making Comics”(2000), “Reinventing Comics”(2006)というような、「コミックの描き方コミック」というか「コミック論コミック」で有名な人です。その彼の1994年の”Understanding of Comic”には日本マンガについて中々面白い指摘があって少し長くなりますが引用しながら解説します。
(左:Scott McCloud”Understanding Comics” Harper Perennial,1994 右:同”Making Comics” Harper, 2000)
コマとコマの繋ぎ方に関する議論の中で、マクラウドは以下の6分類を考えています。厳密な分類にならないことは彼自身承知の上で、便宜的なものとして、
1. 連続した時間変化
2. アクションの変化
3. 主題の変換
4. シーンの変換
5. 視点の変換
6. 無関係
みたいな感じで導入しています。
(“Understanding Comics” p.74)
この分類でアメリカのコミック作品を解析するとおおよそ、
1. –
2. 65%
3. 20%
4. 15%
5. –
6. –
(“Understanding Comics” p.75)
ということになって、どの作品も似た傾向を示すらしい。フランスの代表的なバンド・デシネである『タンタンの冒険』でもそれは変わらないのだそうです。(「ホントにそんな解析をやったのか?」と思う読者も居らっしゃるかもしれませんが、英米系の人は芸術作品に定量解析を持ち込むのが結構好きなのです。)ところが、日本の作品は上記の2や4の比率が減って、1の「連続する動作変化」と5の「視点の変換」が一定比率で出てくるというのが、マクラウドの解析です。彼が示す例を見てもらうのが一番手っ取り早いので転載しましょう。
(“Understanding Comics” p.75 手塚治虫『ブッダ』の解析結果と、その例。男が徐々に目覚めていくコマがまず続くが、これが1の「連続する動作変化」に該当し、そこから視点が男の主観に切り替わる。これが5の「視点の変換」に相当する。このようなコマの繋ぎ方は、従来のアメリカンコミックには無かったのだとマクラウドは解説している。)
日本マンガとアメリカのコミックは、コマとコマの繋ぎ方がそもそも違うというのです。マクラウドによれば、彼は一時期とても日本マンガに惹かれたのだそうですが、このあたりは彼自身の”Making Comic,” pp.215-216から引用しましょう。
1982年、大学を卒業したばかりの私はマンハッタンに住み着いて、日本のコミック「マンガ」を憑かれたように読むようになっていた。ケッサクなことに、私が読んだものは当時まだ何も翻訳されていなかったし、私も日本語は読めなかったのだ!
当時の私の職場はロックフェラーセンターの「DC Comics」で、そこから2ブロック先にアメリカ最大の日本書籍店である紀伊国屋があった。ほとんど毎日、昼休み時間になると書棚の間を駆け抜けてコマからコマへ、右から左へ、表紙から表紙へと絵を「読ん」だものである。
そうやって私はたくさんの視覚的ストーリーテリングの方法を発見し、2年後に自分の作品で熱心に使うことになる。そういうのは当時のアメリカのコミックで殆ど見ることができなかったのである。
続けて彼は、紀伊国屋マンハッタン店の日本マンガの棚で発見した日本の「視覚的ストーリーテリング」の手法を以下の8項目にまとめた上で、それらを巧く活用しながら、日本マンガは読者の感情移入を効率的に促しているのだとしています。
1. アイドル・キャラクター
2. 細かく確立されているジャンル
3. 「場所」への強い拘り
4. キャラクターデザイン
5. 言葉の無いコマ
6. 細部の写実描写
7. 主観的な動きの表現
8. 感情の表現効果
(“Making Comics” p.216)
このマクラウドの論がどこまで妥当なのかという議論はさておき、日本語が読めないアメリカ人コミック作家の卵が、日本マンガに惹かれて毎昼休みにマンハッタンの紀伊国屋書店の漫画棚に通い詰めたという話は大変に興味深いものです。彼にとって、日本マンガのインパクトは「視覚的ストーリーテリング」技術にありました。それは、彼が職業にしようとしていたアメリカのコミックには無かったものだったのであり、それを使えば当時のアメリカのコミックの中で表現できなかったものが出来ると思われたのでしょう。そして、多くのアメリカの読者にとっては、日本マンガが誘引する「感情移入」の体験は、従来のアメリカのコミックでは得られなかったものだったからこそ、Coolだった訳です。そして、現在のアメリカでは日本のマンガに影響されたコミックが結構な数で生産されるようになりました。
以上の話はマンガに関するものですが、アニメに関しても似たような話はきっとあります。アメリカのアニメーション映画(もしくはテレビ番組)と日本のアニメとの間には、物語が複雑か単純かの差異だとか絵柄だとか以外にも、はっきりとした表現上の違いがあります。そして、その表現によって導かれる作品体験みたいなものがCool!と認識されるに至ったと思うのですが、アニメの領域で詳しく調べていないので、これ以上の断言は避けます。
日本における近頃の洋画の興行成績は振るいませんが、かつての日本でも日本映画を「貧乏臭い」と馬鹿にして、突き抜けた明るさとスケールを持つアメリカ映画や、格調高いヨーロッパのアートシネマに心酔する映画ファンは幾らでもいました。映っている人物が日本人であるか欧米人であるか以上に、画面の構成だとかテンポに、やはり明確な違いが(昔は)あったからです。日本映画を観ていたのでは得られない快感が洋画にはあり、カッコよかったのです。やはり古い話をしますが、音楽だって、プレスリーだとかビートルズがもたらした「ロックンロール体験」は、それまでの日本の音楽では得られないものでした。そして、当時の日本の若者は英語が解らないのに、彼らの歌が無暗にカッコよく聞こえたというのは、オタクのアメリカ人が読めもしない直輸入の未翻訳日本マンガをCool!と褒めそやしたのと大して変わらない訳です。
さて、ここで話はようやくライトノベルに戻ります。果たして、ライトノベルは上述のような文化体験を欧米にもたらすようなCoolなコンテツだったのだろうか?というのが、ここで書いておきたい問いかけです。ライトノベルはCool!と言わしめるような読書体験をアメリカ人読者にもたらすコンテンツだったのでしょうか。
今回の調査からすると、どうも、そうではなかったようだと言わざるを得ません。絵との組み合わせを強調されるライトノベルですが、本体は小説です。そして、英米圏は少年少女文学も、それよりも少し上を狙ったヤングアダルト文学も硬軟織り交ぜて、かなり充実していると言われています。ライトノベルが埋めるべき穴がなかったのかもしれません。(これとは逆に、韓台中ではヤングアダルト文学に相当する分野が十分に育っておらず、そこにライトノベルが攻め入ったと見ることもできます。)
それから、TokyoPopなどの翻訳ライトノベルを読んでいて思ったのですが、英語がすごく簡単なのです。そして、口語的な崩し方もそれほどやっていません。日本人がライトノベルを読みながら、往々にして感じる「よくもまあ、こんな無茶苦茶な書き方を」という印象は、そういう翻訳からは得られないんじゃないでしょうか。つまり、「ラノベっぽさ」を相当に殺した翻訳だと思うのです。私は、規範からはずれた書き方をしながら物語はしっかり展開させてしまう、ライトノベルの出鱈目さ加減が好きなのですが、あの翻訳ではそういう味は出せないんじゃないかと思います
ただ、楽観できる材料はあります。最初にも書いたとおり多くのライトノベル翻訳が苦戦している中で、YenPressのみはシリーズの継続的翻訳出版に成功しています。『文学少女』『狼と香辛料』『キーリ』はそれぞれが4巻、5巻、6巻が出ていますし、児童文学・ヤングアダルト小説の老舗Little&Brownと組んで出版した『ハルヒ』も6巻まで出ました。刊行のペースは落ちていませんし、アナウンスもされているので、おそらくそれぞれのシリーズは最後まで翻訳されるものと思われます(2012年5月現在)。内容的にもTokyoPopあたりと比較すると、かなり丁寧な翻訳が行われており、既存のヤングアダルト小説にうまく着地させているという印象を持っています。そうした翻訳でライトノベルの持ち味がどれだけ表現できるのかという問題はあるとは思いますが、手間と時間をかけて戦略的に取り組めば、ライトノベルも英語の世界できちんとした商品になるのだという事例なのかもしれません。
(報告:太田)