「ダ・ヴィンチ」7月号のライトノベルランキング

2012/06/13

現在発売中の書籍情報誌「ダ・ヴィンチ」7月号(メディアファクトリー刊)では、「2012 上半期BOOK OF THE YEAR」と題して、2011年10月から半年間に発売された書籍のランキングが掲載されています。

ダ・ヴィンチ 2012年 07月号 [雑誌] ダ・ヴィンチ 2012年 07月号 [雑誌]

メディアファクトリー 2012-06-06
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ダ・ヴィンチ電子ナビ: ダ・ヴィンチ 2012年7月号

すでにご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、今回のランキングから新たにライトノベル部門が設けられました。そのランキング作成にあたっては、ライトノベル研究会から大橋崇行、山中智省の2名が選考委員として参加致しております。書店などでお見かけの際はぜひ覗いて見て下さい。

【文責:山中】


海外ライトノベル翻訳事情 おわり

2012/06/11

ライトノベル研究会のブログを占有するかのような連載を続けてしまいました。申し訳ありません。

元々は、「『涼宮ハルヒの驚愕』の世界同時発売」という角川のキャンペーンを見た時に、何処と何処で発売されるんだろうと思ったところからスタートした話でした。「13カ国同時発売」なんて話もまことしやかに流布していましたが、どうもハッタリ臭い。その時点でハルヒは英・仏・西・韓・台・中で翻訳されていていることだけは分かったので、調査結果をメーリングリストに流したら、一柳先生が「『ライトノベルの世界戦略』みたいな題で誰か書きませんか」と書いてきました。英語への翻訳事例を調べるくらいなら出来そうだったので、英語翻訳本をamazonで買い漁り始めたのですが、それが面白くなってフランス語、ドイツ語、韓国語、中国語、スペイン語、イタリア語と止めも無く拡大してしまったというのが、ことの経緯になります。

各国語に翻訳された『涼宮ハルヒ』
(『涼宮ハルヒ』の各国語訳。英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、韓国語、中国語(繁体、簡体))

調査していく中で、まず眼を引いたのは「アメリカでライトノベル翻訳は売れていない」らしいということでした。これがフランスになると、さらに酷くて壊滅状態です。マンガやアニメがアメリカやフランスで人気を博しているというマスコミ報道にさんざん触れてきたせいなのか、どうせライトノベルもその勢いに乗って売れているんだろうと思っていたのですが、そういう訳でも無さそうなのです。

ライトノベルは「字で書くマンガ」だとする表現もあるほどに、マンガに近いコンテンツだと我々は考えます。だから、日本のマンガを受け入れていれば、ライトノベルもそのまま受け入れられるだろう。そんな風に考えていたのですが、現実はそうはなっていません。日本マンガの独立系の翻訳会社の試行錯誤の末に、ようやく大手出版社系列でライトノベル翻訳がぼちぼち成功しつつあるのが現状です。

その一方で、壁など無きが如き勢いで日本のライトノベルは韓国と台湾に流れ込み、中国本土にも進攻しています。この差は何なのか。

もちろん、国によって文化的あるいは歴史的な背景が違うのですから、差もあって当然でしょう。ただ、その背景を丁寧に見ていけばライトノベルの受け入れ方の差異も見えてこようし、そういう作業を通じて「そもそもライトノベルとは何だ」という問題にも、今までとは違う光を当てる事も出来るのではないか。そんな風に考えて、手に入れたライトノベルの現物を眺めながら、とりとめも無くあれやこれやと書き継いでみました。

ただし、当たり前の話ですが、読めない言語で書かれた本をいくら眺めた所で分かる事はたかが知れており、その国の若年者向け文芸の歴史だとか現状を知らなければ言える事などほとんど無いのです。「俺って、不毛な事をしているなぁ」と自らを省みている日々が続きました。それでも、ここで書いてきた事が、ライトノベルという事象を考える上での、何かのヒントになればと思っています。


(様々な言語に翻訳された日本のライトノベル

(太田)


海外翻訳事情 役割語

2012/06/09

「役割語」なる概念を御存知でしょうか?

たとえば、アニメやマンガの世界では「博士」と呼ばれる人たちは、高い確率で「~なのじゃ」という喋り方をします。しかし、現実の「博士」たち、たとえば今の東京大学の教授で「~なのじゃ」という言葉を使っている人は、まずいません。居たら、是非通報ください。この他、「おほほ」と笑い「~のことよ」と喋る「お嬢様」、「~アルよ」と喋る「中国人」など、実際にそんな風に喋っている人はほとんどいないのに、書き言葉や映画や演劇の世界では定着してしまっている言葉が日本語にはいっぱい有ります。

 つい最近に金水敏という言語学者が、こうした言葉を「役割語」と命名しました。研究会も組織されて本も出ています。

金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』役割語研究の地平『役割語研究の展開』
(左から金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店、金水敏編『役割語研究の地平』『
役割語研究の展開』いずれも、くろしお出版)

 ごく大雑把にいえば、役割語は文芸の世界で大変に便利な手法です。細かい人物描写をするよりも、その人物に「~なのじゃ」と発話させるだけで、読者は「この人は博士だ」ということを理解するからです。

 起源的な話をすれば、「~なのじゃ」は江戸時代の戯作や歌舞伎にまで遡れるのだそうです。その頃のお医者さんだとか学者というのは、新しく形成されつつあった江戸言葉を使わずに、すこし古めかしく聞こえる上方(京都や大阪)言葉を保持している人達と言うイメージが江戸の人達の頭の中には出来ていて、それが戯作や歌舞伎の世界では医者だとか学者は当時の関西弁である「~なのじゃ」という言葉を喋らせることになり、その伝統が、そのまま明治から昭和平成まで続いてしまったということです。そんな喋り方をする博士はもはや生存していないのにも関わらず、『名探偵コナン』の博士などもいまだに「~なのじゃ」と喋り続けている、、、そういう話です。

 関西弁自体は、江戸時代の途中で音韻変化を起こして「~なんや」という喋り方になりました。もし、この音韻変化がもう少し早くに起こっていれば、『鉄腕アトム』のお茶の水博士も「はよ行くんや、アトム」などと喋っていたのかもしれません。が、しかし、これは話が逸れました。

 方言も文芸作品の中では役割語として機能します。金水は、大阪弁を喋る人物は「笑わせ好き」「ケチ」「喰いしんぼ」「派手好き」「下品」「ど根性」「ヤクザ」などの性格付けが行われている例が多いことを示していますが、東北弁が田舎者を示し、九州弁が男っぽさを示す等、似たような性格描写機能が思い浮かぶことと思います。

 アニメやマンガ、ライトノベルではさらに「キャラ語」が用いられているという見方もされています。「~ポコ」などと喋る人物が、実際の世の中に居るとは思いませんが、「そういう喋り方をするキャラクター」ということにしてしまう例は、ゴマンとあります。一人称でキャラクターを特定する例もあって、『戯言』シリーズの久渚友は「僕様ちゃん」と自分のことを言ってますが、実際にそんな一人称を使っている人は実在しそうにありません。でも、そのように喋ればそのキャラクターが特定できます。

 実際に小説を書いたことがある人はお分かりになると思いますが、会話文を書く上で、誰の発言なのかを明示するために「~は言った」とイチイチ書くと文章のテンポが乱れますし、読んでいても繁雑に感じます。しかし、それ無しにどの発言が誰によるものなのかを書き分けるのは、結構難しいものなのです。役割語、あるいはキャラ語を使えば、そういう問題は一気に解決しますので、ライトノベルなどでは多用されるのでしょう。

 さて、ここからが本題なのですが、こういう役割語って外国語にもあるのでしょうか?無いわけじゃ無いのですが、日本語のように語尾(終助詞)を変えたり、一人称を変えたりという手法は、例えば英語ではとれません。英語に終助詞に相当する品詞はありませんし、一人称は“I”しかありませんから、別の手法が採られます。例えば、日本語の世界で「田舎者」を示すための役割語は「東北弁の一人称と語尾」に担われてきました。「おら、~だべ」みたいなやつです。これがアメリカだと、黒人訛り、南部訛り、テキサス訛りなどの英語になり、イギリスだとスコットランド訛り、ウェールズ訛りの英語を用いる例が多く、子音の脱落や母音の変化で示されます。例として、『ハリーポッター』シリーズのハグリッド(イギリス西部地域)の話し方を紹介しておきましょう。

 “Tha’s very nice of yeh,” said Hagrid. (“Harry Potter and the Half-Blood Prince”)

 That’sから子音が脱落してTha’sになり、youの母音が変化してyehになっています。ついでなので、同じく『ハリーポッター』で出てくる「ヨーロッパ大陸訛り」の英語の例も示しておきます。

 I am ‘oping to get a job ‘ere, to improve my Eenglish. (“Harry Potter and the Goblet of Fire”)

 フランス人はHの発音が出来ませんから、Hopingが’opingになり、hereが’ereになる喋り方はいかにも大陸のフランス人っぽく聞こえるのだそうです。EenglishのEがEeと連続しているのは「アングリッシュ」というフランス語訛に陥らないように強調して「イーングリッシュ」と発音しているってことなのでしょうか。よくわかりませんけれど。

 ただ、英語の世界でこういうのは、そんなに使える手法ではありません。だから、イギリス風な言い回しで「上流階級」を示したり、文法を間違えさせて「無教養」を示したり(「日本人」を描くときにも、冠詞を落とした話し方をさせたりします)、色々な手法を駆使して「その人物らしさ」を演出しなくてはなりません。それは、日本語の小説だって同じことなのですが、役割語という便利なツールが揃っているので、それに頼ってしまう小説も多いことも確かなのです。逆に言うと、役割語だとかキャラ語に頼っている小説が安っぽく見えるのは、会話文による細やかな人物描写をやっていないことが見えてしまう書き方だからです。

 ともあれ、役割語だとかキャラ語にはその言語固有の事情があるので、機械的には翻訳しにくいのです。となると、役割語だとかキャラ語にあふれたライトノベルの翻訳はどうすればよいのか?これはもう、「丁寧に訳す」としか言いようがありません。役割語によって表現されている人物設定を、別の手段で表現するしかないのです。お嬢様なら、上流階級が使いそうな言い回しをさせ、博士なら知能の高い研究者が使いそうな表現で喋らせる。そうなれば、翻訳技量もそれなりに要求されます。ライトノベルの文章は平易だから翻訳も簡単である、とはならないのです。

 あるいは、そういうのはすっ飛ばして翻訳してしまうのか。『狼と香辛料』は、そのような事例に見えました。この作品で、萌えキャラの獣神ホロは「わっち」「〜でありんす」みたいな郭(くるわ)言葉を使います。何百年を生きている異形の存在に古めかしい言葉を使わせるのは分かるとしても、何故、遊郭で芸者さん達が使っていた言葉なのか。ホロは仮にも豊穣の神様なのですから、よく考えると実に奇妙な取り合わせなのですが、ライトノベルっぽい安っぽさというか、いい加減さが出ている事例だと思います。その『狼と香辛料』を翻訳したYenPressは、このホロの「キャラ語」を無視しているように見えますし、古めかしい特別な言葉も使わず、普通の言葉で喋らせているように見えます。(ネイティブな話者に確認してもらう必要はありますが。)そうなると、萌えキャラが郭言葉を話している『狼と香辛料』という作品から我々が受ける印象の中の、ある部分は英語翻訳から落ちているんじゃないのかという気がするのです。少なくともyouの古型であるthouを使って古めかしく喋るという方法が英語にはあるのですが、そういうこともしません。

翻訳文:“Oh, you’re telling me to show you my wolf form.”
原文:「ああ、ぬしはわっちに狼の姿を見せろと?」 

比較的丁寧な翻訳でやっているYenPressがこうですから、独立出版系のTokyoPopだとかVitz, SevenSeasなどは推して知るべしなのかもしれません。実際、これらの出版社の翻訳文は平易な英語である分、原文の役割語に託されていたニュアンスもそっくり無視しているように見えます。

以上、役割語・キャラ語を視点にしてライトノベル英語翻訳の問題点を書いておきましたが、これが他の言語だとどうなるのか。百元籠羊さんに問い合わせた所、中国語には役割語に該当する便利なツールは無いとの返答でした。そこをどう訳すのかは、字幕組の技量の見せ所なんだそうです。その一方で、韓国語にはキャラ語尾があるという話が、上記の『役割語研究の地平』で報告されています(第二章「キャラ助詞が現れる地平」定延利之)。日本語と文法構造が同じなので、似たような操作で役割語であるとかキャラ語尾を作ることができるようです。このあたりは、韓国へのライトノベルの輸出障壁の低さの一因だったのかもしれません。

(報告:太田 2014.11.2にハグリッドの訛りについて修正しています)


海外ライトノベル翻訳事情 アメリカ編再び(2)

2012/06/07

前回は大手出版系の二社の比較を行いましたが、今回は独立出版系の会社であるVizMedia,TokyoPop,SevenSeesの3社について考えてみたいと思います。とはいえ、詳細な議論は無理なんじゃないかと思うのです。

 独立系出版社から出ているライトノベル

出版というのは、机ひとつと印刷所に払うお金さえあれば最低限のことが出来ます。参入障壁が極めて低いビジネスで、だからこそ無一文に近い状態の日本人ヒッピーだってアメリカでVitzMediaみたいな会社を興すことが出来たのです。もちろん、スタッフを雇って、調査を行い、高い原稿料で執筆依頼を行う等、お金の掛けようはいくらでもありますし、大手出版社は様々な思惑で資本投下を行います。これに対して、零細〜中小出版社は安価に出来る戦略を取らざるを得ません。

以前、研究会でライトノベル翻訳事情を話したとき、メンバーから「翻訳しているのは学生バイトでしょ?」という指摘が飛んできました。確かに、そんな気はします。こういうのも何ですが、『スレイヤーズ』など、いい加減な箇所が目立つ意訳でしたし、『ロケットガール』もややこしいところはすっ飛ばした所のある翻訳でした。

日本だって、アメリカのSF小説翻訳を学生バイトに頼っていた時代があります。大学のSF研究会に声をかけて、原語でSFを読んでいる学生に翻訳を持ちかける等ということを早川書房はやっていましたし、後発のサンリオSF文庫も学生翻訳に依存していました。(私の同級生にも動員された男がいました。)当然、翻訳の質は大して高く無い、というか「かなり酷かった」という評価が当時はつきまとっていました。

それと似たような話なのでしょう。日本マンガの翻訳出版が始まったときにも、海賊翻訳をやっていたようなファンが抜擢されたのでしょうが、首を傾げたくなるような翻訳例はいくらでも出てきます。以下は、『のだめカンタービレ』の2005年に出た翻訳ですが、「Aikonしましょう」というセリフが出てきます。いったい、Aikonとはなんなのでしょうか?原文を見れば分かりますが「合コン」なのです。

『のだめカンタービレ』での”Aicon” 『のだめカンタービレ』Aicon原文

訳者自身に日本での生活体験があれば、まず起こらない誤訳でしょうし、日本人校正者を一人入れておけば防げた話でしょう。大手系列のDel&Rayでさえ、こんな誤訳を出してしまうのですから、中小出版社が出すライトノベル翻訳を論じる場合、あんまり細かいことを論じても仕方ないような気がします。そもそもビジネス自体が、担当者の思いつきで発行して、「売れればラッキー、売れなければそれまで」みたいな姿勢で行われている感は否めないのです。

独立系三社のライトノベル翻訳を見た場合、総じてシリーズの翻訳に成功した事例が少ないこと、初期には表紙のイラストは差し替えられるケースが多く、カラー口絵やイラスト、著者後書きを欠く事例が散見されるけれども、徐々に日本オリジナルの体裁を踏襲するケースが多くなっていること、その程度のことが言えるぐらいだと思います。

(報告:太田)


海外ライトノベル翻訳事情 アメリカ編再び(1)

2012/06/05

この連載を始めた頃は、手に入った英語のライトノベル翻訳を順番に眺めていく程度のことしか考えておらず、まさかそこから出発して、米仏伊西独露韓台中へ拡大するとは思っていませんでした。中台韓の東アジア圏を一巡して、ヨーロッパの最新動向もフォローしたところで、やや散漫だった英語翻訳の話を、ここでもう一度まとめ直したいと思います。

 英語へのライトノベル翻訳を手がけた出版社は、1社を除いて元々日本マンガ翻訳を手がけており、そこからライトノベル翻訳に手をつけたということでは、共通します。ただ、会社の規模もしくは背景となる資本力によって、独立出版系のVizMedia,TokyoPop,SevenSeesの3社と、YenPress(とそれと同じ資本系列のLittle&Brown)とDel&Rayの2社(あるいは3社)に分けて考えた方が良いように思えます。

 Del&Rayは正確に言えば、Ballantineという出版社の中でSFやファンタジー、そしてコミックを扱っている一部門なのですが、Ballantineは更にランダムハウス出版グループの一員。まさに大手出版系列です。

 YenPressはフランスのHachette Livreのアメリカ支社のマンガ出版部門です。アメリカのHachetteは、ランダムハウスと並んで6大出版社の一つに数えられていますし、本体のフランスのHachetteは国際コングロマリットLagardèreの出版部門ですから、これまた大手出版系列。YenPressと共同で「ハルヒ」を出したLittle&Brownは元々は19世紀から続く児童文学出版の老舗で、最近になってHachette資本傘下に入ったという関係です。アメリカで大ヒットして映画化もされた『トワイライト』は、Little&Brownの小説でしたが、そのコミック版がYenPressから出ていることなどから、Hachetteグループの中で、Littele&Brown:ヤングアダルト向け小説の出版、YenPress:マンガ/コミックの出版という事業分担があるのでしょう。

 そのマンガ担当のYenPressがライトノベルに手を出したのは、まあ良いとして、なぜ『ハルヒ』に限って小説担当のLittele&Brownと共同出版という形を取ったのか、その事情はよく分かりません。欧州各国(仏伊西)でのハルヒの扱いと合わせてみるに、『ハルヒ』は特別な作品に思えてくるのですがそれはともあれ、この大手出版系のYenPress対Del&Rayという軸でライトノベルの英語翻訳事情を見てみましょう。

 勝負ということでは、既に終わったとみて良いでしょう。YenPressは『狼と香辛料』『文学少女』『キーリ』という3シリーズの継続的翻訳出版に成功し、Little&Brown社との共同で『涼宮ハルヒ』も継続的に翻訳しています。片やDel&Rayは『戯言』シリーズの二作を翻訳して、そこで出版が途絶えました。予告されていた『空の境界』も未だに出版されていません。ライトノベルからの撤退と見て間違いは無いと思います。

YenPressのライトノベル
(
YenPressのライトノベル。いずれもシリーズを継続的に刊行しており好調。)


(
YenPressとLittle&Brownが共同で出版した二種類の『ハルヒ』も好調にシリーズの刊行を続けている。)

Del&Rayのライトノベル

(Del&Rayのライトノベル翻訳は『戯言』シリーズを二巻出した所で中断)

何が明暗を分けたのでしょうか?角川系から攻めて行ったYenPressと講談社系からのDel&Rayの差なんでしょうか。Del&Rayが、たまたま最初に『戯言』に手を出して、たまたま転けたということなのでしょうか?

 出版内容から見ると、この二社の路線には明確な差異があったように思えます。既に紹介してきたようにDel&Rayは、『戯言』を使って、日本のオリジナルを最大限尊重した翻訳出版を行いました。表紙から目次のレイアウト、イラストの配置に至るまでオリジナルに忠実に倣っています。タイトルも”Zaregoto”で日本語をローマ字表記しただけですし、主人公の「いーちゃん」も”Ii-chan”です。つまり、典型的な異化的翻訳(翻訳される側の言語にとって異質なものを含む翻訳)なのです。

 これに比較すると、YenPressは同化的翻訳(翻訳される側の言語にできるだけ自然な翻訳)を選択したように見えます。『狼と香辛料』『文学少女』『キーリ』の表紙では、日本オリジナルのものをストレートに使っていません。『ハルヒ』にしても、二つのバージョンを出してマンガ・アニメ的な外見を捨てた装幀も残しました。訳文の中でも、-san, -chanのような異化的翻訳文は使っていません。日本人にしか解り難い特殊な固有名詞は、アメリカ人に分かるようなものに置き換えられています。たとえば『ドラえもん』の登場人物を参照した「ったく、ジャイ×ンか?」というセリフが『文学少女』にはでてきますが、これは『マペット・ショー』に出て来るキャラクターに置き換えられて、“Not even Miss Piggy was as self-absorbed as she was.”のように翻訳されています。

 ここでマンガやアニメの翻訳について言っておくと、従来のマンガやアニメの翻訳は異化的でした。「文体編」でも書きましたが、-chan, -san, -sempaiみたいな従来英語に無かった呼称を使っているのが現在のマンガ翻訳の現状です。これには、マンガ・アニメの翻訳がファンによる海賊版が主流だったという歴史も手伝っているのかもしれません。同化的翻訳というのは技量も必要だし、手間もかかるのです。AがBに「〜先輩」と呼びかけることで読者に了解されるAとBの関係を、翻訳文のニュアンスで表現するのは結構難しい。そこを強引に、海賊翻訳が-sempaiとしてしまい、それが定着したのがマンガやアニメの翻訳事情でした。そしてそれがそのまま、ライトノベルの海賊翻訳サイトにも引き継がれています。

これも「文体編」で書いたことですが、YenPressはこの「伝統」を破棄して、-chan, -san, -sempaiを排しました。アニメ視聴者やマンガ読者以外には分からないという、編集部の判断があったのではないかと思います。そして、アニメやマンガ翻訳に連なる異化翻訳を維持したDel&Rayがライトノベルから撤退したのとは対照的に、YenPressはライトノベルの継続的出版に成功しました。これは、今後のライトノベル翻訳の一つの流れになるように思えます。

(報告:太田、一部平石さんからの情報を使いました)


ライトノベル海外翻訳事情 マンガの場合はどうだったのか

2012/06/03

ということで、米仏韓台中のライトノベル翻訳事情を見てきましたが、東アジアと欧米ではっきり差が出ています。東アジアは、総じて日本のライトノベルがそのまま受け入れられているように見えますが、欧米はかなり苦労しています。表紙のイラストが差し替えられるのは当たり前ですし、大方は第1~2巻が出た後の出版が続いていません。シリーズで出版することに成功しているのはYenPressぐらいです。TokyoPopも『スレイヤーズ』や『フルメタルパニック』などのシリーズ刊行を行いましたが、会社自体が潰れましたし、中古市場を見る限りではあまり売れた形跡がありません。どこにその差はあるのでしょうか。

 マンガやアニメを中心とした日本のサブカルチャーが諸外国でCool Japanとして持て囃されていて、J-popもコスプレも大人気だなどという愛国心を擽るような報道を聞いていると、似たようなジャンルであるライトノベルも一緒に受け入れられるだろうと考えがちなのですが、事情はそんな単線的なものではないらしいのです。今回は、ライトノベルから脱線して、最後にライトノベルに戻ってきます。

 そもそもマンガやアニメの何がそんなに”Cool!”(かっこいい)なのか。このあたりもマスコミが、盛んにオタク外国人にインタビューして「絵がきれいだし、物語も複雑だ。単純で子供っぽいアメリカのコミックだとかディズニーのアニメなんかとは全然違う」みたいな回答を引き出しています。しかし、それだけなのでしょうか。ファンが口にする感想は、それはそれで正直なものですが、言語化されていないところにも結構重要な要因があるのではないでしょうか。

 今回紹介するのは、スコット・マクラウドというコミック作家で、“Understanding Comics”(1994), “Making Comics”(2000), “Reinventing Comics”(2006)というような、「コミックの描き方コミック」というか「コミック論コミック」で有名な人です。その彼の1994年の”Understanding of Comic”には日本マンガについて中々面白い指摘があって少し長くなりますが引用しながら解説します。

 "Understanding Comic" By Scott McCloud McCloud, "Making Comics"
(左:Scott McCloud”Understanding Comics” Harper Perennial,1994 右:同”Making Comics” Harper, 2000)

コマとコマの繋ぎ方に関する議論の中で、マクラウドは以下の6分類を考えています。厳密な分類にならないことは彼自身承知の上で、便宜的なものとして、

1. 連続した時間変化
2. アクションの変化
3. 主題の変換
4. シーンの変換
5. 視点の変換
6. 無関係

みたいな感じで導入しています。


(“Understanding Comics” p.74)

この分類でアメリカのコミック作品を解析するとおおよそ、

1. –
2. 65%
3. 20%
4. 15%
5. –
6. –


(
“Understanding Comics” p.75)

ということになって、どの作品も似た傾向を示すらしい。フランスの代表的なバンド・デシネである『タンタンの冒険』でもそれは変わらないのだそうです。(「ホントにそんな解析をやったのか?」と思う読者も居らっしゃるかもしれませんが、英米系の人は芸術作品に定量解析を持ち込むのが結構好きなのです。)ところが、日本の作品は上記の2や4の比率が減って、1の「連続する動作変化」と5の「視点の変換」が一定比率で出てくるというのが、マクラウドの解析です。彼が示す例を見てもらうのが一番手っ取り早いので転載しましょう。


(“Understanding Comics” p.75 手塚治虫『ブッダ』の解析結果と、その例。男が徐々に目覚めていくコマがまず続くが、これが1の「連続する動作変化」に該当し、そこから視点が男の主観に切り替わる。これが5の「視点の変換」に相当する。このようなコマの繋ぎ方は、従来のアメリカンコミックには無かったのだとマクラウドは解説している。)

日本マンガとアメリカのコミックは、コマとコマの繋ぎ方がそもそも違うというのです。マクラウドによれば、彼は一時期とても日本マンガに惹かれたのだそうですが、このあたりは彼自身の”Making Comic,” pp.215-216から引用しましょう。

1982年、大学を卒業したばかりの私はマンハッタンに住み着いて、日本のコミック「マンガ」を憑かれたように読むようになっていた。ケッサクなことに、私が読んだものは当時まだ何も翻訳されていなかったし、私も日本語は読めなかったのだ!

当時の私の職場はロックフェラーセンターの「DC Comics」で、そこから2ブロック先にアメリカ最大の日本書籍店である紀伊国屋があった。ほとんど毎日、昼休み時間になると書棚の間を駆け抜けてコマからコマへ、右から左へ、表紙から表紙へと絵を「読ん」だものである。

そうやって私はたくさんの視覚的ストーリーテリングの方法を発見し、2年後に自分の作品で熱心に使うことになる。そういうのは当時のアメリカのコミックで殆ど見ることができなかったのである。

続けて彼は、紀伊国屋マンハッタン店の日本マンガの棚で発見した日本の「視覚的ストーリーテリング」の手法を以下の8項目にまとめた上で、それらを巧く活用しながら、日本マンガは読者の感情移入を効率的に促しているのだとしています。

1. アイドル・キャラクター
2. 細かく確立されているジャンル
3. 「場所」への強い拘り
4. キャラクターデザイン
5. 言葉の無いコマ
6. 細部の写実描写
7. 主観的な動きの表現
8. 感情の表現効果

McCloud, Making Comics, p.216

(“Making Comics” p.216)

このマクラウドの論がどこまで妥当なのかという議論はさておき、日本語が読めないアメリカ人コミック作家の卵が、日本マンガに惹かれて毎昼休みにマンハッタンの紀伊国屋書店の漫画棚に通い詰めたという話は大変に興味深いものです。彼にとって、日本マンガのインパクトは「視覚的ストーリーテリング」技術にありました。それは、彼が職業にしようとしていたアメリカのコミックには無かったものだったのであり、それを使えば当時のアメリカのコミックの中で表現できなかったものが出来ると思われたのでしょう。そして、多くのアメリカの読者にとっては、日本マンガが誘引する「感情移入」の体験は、従来のアメリカのコミックでは得られなかったものだったからこそ、Coolだった訳です。そして、現在のアメリカでは日本のマンガに影響されたコミックが結構な数で生産されるようになりました。

以上の話はマンガに関するものですが、アニメに関しても似たような話はきっとあります。アメリカのアニメーション映画(もしくはテレビ番組)と日本のアニメとの間には、物語が複雑か単純かの差異だとか絵柄だとか以外にも、はっきりとした表現上の違いがあります。そして、その表現によって導かれる作品体験みたいなものがCool!と認識されるに至ったと思うのですが、アニメの領域で詳しく調べていないので、これ以上の断言は避けます。

日本における近頃の洋画の興行成績は振るいませんが、かつての日本でも日本映画を「貧乏臭い」と馬鹿にして、突き抜けた明るさとスケールを持つアメリカ映画や、格調高いヨーロッパのアートシネマに心酔する映画ファンは幾らでもいました。映っている人物が日本人であるか欧米人であるか以上に、画面の構成だとかテンポに、やはり明確な違いが(昔は)あったからです。日本映画を観ていたのでは得られない快感が洋画にはあり、カッコよかったのです。やはり古い話をしますが、音楽だって、プレスリーだとかビートルズがもたらした「ロックンロール体験」は、それまでの日本の音楽では得られないものでした。そして、当時の日本の若者は英語が解らないのに、彼らの歌が無暗にカッコよく聞こえたというのは、オタクのアメリカ人が読めもしない直輸入の未翻訳日本マンガをCool!と褒めそやしたのと大して変わらない訳です。

さて、ここで話はようやくライトノベルに戻ります。果たして、ライトノベルは上述のような文化体験を欧米にもたらすようなCoolなコンテツだったのだろうか?というのが、ここで書いておきたい問いかけです。ライトノベルはCool!と言わしめるような読書体験をアメリカ人読者にもたらすコンテンツだったのでしょうか。

今回の調査からすると、どうも、そうではなかったようだと言わざるを得ません。絵との組み合わせを強調されるライトノベルですが、本体は小説です。そして、英米圏は少年少女文学も、それよりも少し上を狙ったヤングアダルト文学も硬軟織り交ぜて、かなり充実していると言われています。ライトノベルが埋めるべき穴がなかったのかもしれません。(これとは逆に、韓台中ではヤングアダルト文学に相当する分野が十分に育っておらず、そこにライトノベルが攻め入ったと見ることもできます。)

それから、TokyoPopなどの翻訳ライトノベルを読んでいて思ったのですが、英語がすごく簡単なのです。そして、口語的な崩し方もそれほどやっていません。日本人がライトノベルを読みながら、往々にして感じる「よくもまあ、こんな無茶苦茶な書き方を」という印象は、そういう翻訳からは得られないんじゃないでしょうか。つまり、「ラノベっぽさ」を相当に殺した翻訳だと思うのです。私は、規範からはずれた書き方をしながら物語はしっかり展開させてしまう、ライトノベルの出鱈目さ加減が好きなのですが、あの翻訳ではそういう味は出せないんじゃないかと思います

ただ、楽観できる材料はあります。最初にも書いたとおり多くのライトノベル翻訳が苦戦している中で、YenPressのみはシリーズの継続的翻訳出版に成功しています。『文学少女』『狼と香辛料』『キーリ』はそれぞれが4巻、5巻、6巻が出ていますし、児童文学・ヤングアダルト小説の老舗Little&Brownと組んで出版した『ハルヒ』も6巻まで出ました。刊行のペースは落ちていませんし、アナウンスもされているので、おそらくそれぞれのシリーズは最後まで翻訳されるものと思われます(2012年5月現在)。内容的にもTokyoPopあたりと比較すると、かなり丁寧な翻訳が行われており、既存のヤングアダルト小説にうまく着地させているという印象を持っています。そうした翻訳でライトノベルの持ち味がどれだけ表現できるのかという問題はあるとは思いますが、手間と時間をかけて戦略的に取り組めば、ライトノベルも英語の世界できちんとした商品になるのだという事例なのかもしれません。

(報告:太田)


讀賣新聞に『這いよれ!ニャル子さん』

2012/06/02

今日の讀賣新聞夕刊の連載記事「ラノベくらぶ」では『這いよれ!ニャル子さん』が取り上げられています。

尚、誤解を防ぐために言っておくと、『這いよれ!ニャル子さん』が初めてテレビアニメ化されたのは2010年12月だったり。

【投稿:藤本】


『〈少女マンガ〉ワンダーランド』刊行

2012/06/02

去る5月29日、明治書院より、菅聡子・ドラージ土屋浩美・武内佳代 編『〈少女マンガ〉ワンダーランド』が刊行されました。本研究会の久米依子先生が「少女マンガと文学 ジャンルを超える表現」をご寄稿なさっています。

〈少女マンガ〉ワンダーランド 〈少女マンガ〉ワンダーランド
菅 聡子

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【内容説明】
昔も今も、“少女マンガ”はいつだって女の子の味方だった―『ベルサイユのばら』『ガラスの仮面』『ときめきトゥナイト』『NANA』『花より男子』『のだめカンタービレ』…少女マンガの黎明期から現代に至るまで、多様化しつづけるその魅力に迫る。海外の最新事情も紹介。

【目次】
Ⅰ〈少女マンガ〉の歴史をふりかえる
Ⅱ テクストとしての〈少女マンガ〉
Ⅲ 名セリフで読む〈少女マンガ〉名作ガイド
Ⅳ 海外〈少女マンガ〉事情
Ⅴ〈少女マンガ〉作家紹介45

また、同じく明治書院より、同書の姉妹編である『〈少女小説〉ワンダーランド─明治から平成まで-』が2008年に刊行されています。

「少女小説」ワンダーランド―明治から平成まで 「少女小説」ワンダーランド―明治から平成まで
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【文責:山中】