ラノベ史探訪(2)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【後編】

ラノベ史探訪(1)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【前編】 に続き、今回の【後編】では名称公募の経過からその決定までの流れを追っていきたいと思います。

【応募多数による発表延期】

「最優秀作品には賞金100万円」という告知で始まった「角川文庫・青帯」の名称公募。やはり高額な賞金のためか、かなり多くの応募があったようです。角川書店は当初、結果発表を1988年10月下旬の「朝日新聞」で行うとしていました。そこで実際に当該時期の同新聞を確認したところ、意外なことに、発表時期を延期する以下のような告知が掲載されていました。


(「朝日新聞」1988年10月30日朝刊掲載の角川文庫広告より)

「角川文庫・新シリーズ(青帯)のネーミング募集」に多数のご応募をありがとうございました。応募多数のため現在整理検討中です。勝手ながらネーミングの発表は当初の10月下旬を12月下旬予定に延期させていただきます。

当時、選考が遅れるほどの応募があったことをうかがい知ることができます。そして結果発表は、同新聞の12月28日朝刊の広告を待つことになります。

【「スニーカー・シリーズ」の誕生】

2ヶ月の発表延期を経て、ついに「朝日新聞」1988年12月28日朝刊の角川文庫広告に、小さくではありますが「角川文庫・青帯」の名称決定の告知が掲載されます。そして、ここで決定した名称こそが「スニーカー・シリーズ」だったのです。


(「朝日新聞」1988年12月28日朝刊掲載の角川文庫広告より)

上の記事を見る限り、応募総数は18513通と、やはりかなりの応募があったことが分かります。注目の賞金100万円については、「スニーカー・シリーズ」の同名応募が6通あったことから応募者で山分けとなったようですね。ちなみに優秀作品10点(賞金5万円)も同時に発表されており、以下のような名称が選ばれています。

●アクセル
●スクラム
●タンタン
●ヤン・レモ
●スパーティ
●ステージ
●サブリナ
●ビート・ザ・ビート
●スニーカー・エイジ・バイブル
●カナリア

もしかしたら上記の名称のどれかが選ばれていたかもしれない…と考えると、書店で店員さんに「○○文庫の新刊どこですか?」と聞く際にハードルが高そうなのは、私的には「スニーカー・エイジ・バイブル文庫」でしょうか。「カナリア文庫」だとなんとなく少女小説のような響きがありますね。「タンタン文庫」は某少年記者が白い犬と一緒に冒険活劇を繰り広げていそうですが、きっと著作権的にグレーゾーン、いやアウトでしょうか。ともあれ、これまで見てきた公募の流れを経て、ようやく「角川文庫・青帯」は新たに「スニーカー・シリーズ」という名称を冠されたわけです。そして翌年の1989年から、いよいよ本格的に「スニーカー・シリーズ」が開始されることになります。

*追記(私見)*
上記候補の中からなぜ「スニーカー」という名称が選ばれたのかについて。出版社側からすれば、靴の中では手軽でカジュアルなスニーカーのイメージが、若者向け作品を刊行していた「角川文庫・青帯」のイメージに合致したからではないかと(もちろん若者に馴染み深い単語だからといった他の理由もあったとは思います)。まさか語源の「忍び寄る」を意識したわけではないはずですが…。ただここで注目したいのは、「スニーカー」という名称が公募の形をとって読者側から(公募ゆえ「応募者=読者」とも限りませんが)提案された点です。つまり読者側にとって当時の「角川文庫・青帯」は、スニーカーのような手軽さがあると少なからず思われていた、ということになります。その「手軽さ=ライトさ」という意識こそ、1990年末頃に「ライトノベル」という名称の誕生へ繋がっていく…こうした仮説の検証も今後行っていく必要がありそうです。


【スニーカー文庫の始動】

「角川文庫・青帯」の名称決定から年が明けた1989年、各企業が新年の抱負を掲げる新聞の正月広告のなかに角川文庫の広告も掲載されます(「朝日新聞」1989年1月4日朝刊)。この年創刊40周年を迎える角川文庫が一面を使って宣伝した作品は、古典作品や一般文芸作品ではなく、角川映画の公開も控えていた藤川桂介『宇宙皇子』でした。その紹介記事では「“小説が読まれなくなった”。“若者の活字離れ”が言われて久しいが、いままでの常識を超えた新しいスケールの小説が、逆に若者を中心に圧倒的支持を受けている」と解説された後、「角川文庫は、文庫の常識を超えて、「新しき名作」を探り続けていきます」と結ばれています。この「新しき名作」として角川文庫が提案したもののひとつが、名称が決定したばかりの「スニーカー・シリーズ」でした。1980年代半ばから顕在化していたファンタジーブーム、ティーンズ小説ブームが追い風になっていたこともあり、その意味では非常に期待のかかった船出だったと言えるでしょう。


(「朝日新聞」1989年1月4日朝刊掲載の角川文庫広告より)

発表当初から「スニーカーシリーズ」となっていた記載は、「コンプティーク」や「ドラゴンマガジン」の1989年3月号発売の頃に「スニーカー文庫」に変わっていきます。かつては「角川文庫・青帯」として角川文庫に包括される形をとっていましたが、「スニーカー文庫」の名称使用以降は、独立した文庫レーベルとしての存在感を徐々に増していくことになります。例えば角川文庫の広告と一緒に掲載されていた新刊案内は、スニーカー文庫単独の広告が登場し、(掲載媒体によるかもしれませんが)角川文庫の広告とは区別されるようになりました。


(「ドラゴンマガジン」1989年3月掲載のスニーカー文庫広告)

さて、上の広告の中身に目を向けてみると、スタート当初は少女小説的な作品もラインナップに含まれており、現在のスニーカー文庫とは色合いを異にすることが分かります。水野良『ロードス島戦記』シリーズの成功を受けて、少年向けファンタジー作品レーベルとしての性格を強めていくのはこの少し後になります。一方で少女小説的な作品は、1992年に創刊された角川ルビー文庫へと移行し、少年向けと少女向けのレーベルが分化していきました。そうした流れの先に現在のスニーカー文庫があるのですが、この話題についてはまた別の機会にふれられればと思います。

以上、【前編】【後編】の2回に分けて、スニーカー文庫の名称決定に至る流れを紹介してきました。まだ調査中の事柄も多く取りこぼしも目立ちますが、このコラムが当時の状況を振り返るきっかけのひとつになれば幸いです。

【文責:山中】

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