フィリピンの書店にて(1)

2016/03/15

訳あって、フィリピンに来ています。最近はこのブログのおかげで、外国に出ると本屋を探すという習性が付いていますが、今回も本屋を探してみました。

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とりあえず見つけたのは、マニラの中心部のショッピングモールにあったNational Book Store。Teen’sのコーナーに向かうと、、、僅かばかりの日本マンガの英語翻訳と、アメリカのヤングアダルト小説。このブログでこの間紹介したジョン.グリーンの『ペーパー・タウン』もしっかりありますね。ここで、落ち着いてあたりの本を見渡すと、英語の本ばっかり。フィリピンの公用語はフィリピーノ(タガログ語)と英語ですし、大方の人は英語を喋るのですが、それにしてもフィリピーノの本が無さすぎる。

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書店の中を探したところ、僅かなスペースでフィリピーノの本が置いてありました。

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そうしたら、お目当のものを見つけてしまいました!これは、実にライトノベルっぽい。

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旅の先は長いので、あまり買いこめないのですが、目に付いたのを購入して、ホテルに帰ってしげしげと見てみました。

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表紙は完全にラノベ。

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マンガっぽいイラストもついている。

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会話文がとても多いし、

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SNSの文章も入っていて、絵文字も入る、

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大文字の連続や擬声語も入る。、、しかも翻訳では(たぶん)ない。そしてフィリピーノで書かれている。(少しだけ、英語を喋る人物が登場しますが。)そして、これに類した本がどっさりあって、複数レーベルから発売されていました。

つまり、フィリピンにはオリジナルのライトノベル市場が成立している!、、、ような気がするのですが、いかがでしょうか。男の子向けではなくて女の子向けなので、ライトノベルというよりも、日本で言えば「いちご文庫」時代の状況のようにも思えます。

ついでに、マンガも購入してみました。雑誌のようですが、完全に日本マンガのタッチ。やはり、女の子向けでしょう。

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一店舗の調査結果だけでは、結論めいたことを書くのは危険なので、これ以上は書きません。明日、別の大手書店に行く予定ですが、その結果を投稿するのは少し先のことになります。

(報告:太田)


アメリカのヤングアダルト小説(5)

2016/03/08

ライトノベル研究会のブログでヤングアダルト小説の話を延々と続けるのも問題なので、そろそろ終わりにしましょう。

一連の話は「ライトノベル翻訳がアメリカで苦戦したのは、ヤングアダルト小説の市場がすでにアメリカで確立していたから」という説を検証するためには、実際のヤングアダルト小説を読んでみなければならないだろうというところから始まりました。その結果、それなりに楽しい世界が広がっていたことは確認できたのですが、このヤングアダルト小説というのは、アメリカの他の文化に対してどういう位置付けなんでしょうか?

今回紹介するのは、長谷川町蔵・山崎まどか『ヤング・アダルトU.S.A. –ポップカルチャーが描くアメリカの思春期』(DU Books, 2015)という本です。この著者達は『ハイスクールU.S.A. 〜アメリカ学園映画のすべて〜』(2006)という前著で「学園映画」というくくりでアメリカ映画のあれこれを紹介しているのですが、今回のこの本ではジャンルの壁を取っ払ってポップ・カルチャー全域で「アメリカの青春時代」を考察したんだとしています。当然のことながらヤングアダルト小説も取り上げられていて、それで私は手に取りました。
YoungAdultInUSA
もっとも、小説のことを語っているようで、実は映画化されたものについてしか語っていなかったりして、どうしても映画やドラマ中心がなってしまい、そのあたりは物足りなかったのですが、それでも示唆されるところは大きかったです。つまり、この著者達のようにアメリカの映画やTVドラマ漬けの人達からすると、ヤングアダルト小説というのは、映画やドラマの「周辺ジャンル」、あるいは並走しているジャンル作品に見えるらしい。それは日本のアニメ漬けの人達がライトノベルをアニメやマンガの周辺ジャンルもしくは並走ジャンルとみなし、「字で描くマンガ」などと表現するのとそっくりな現象なのではないかということなのです。

ライトノベルがアニメやマンガの原作供給源であったり、メディアミックスの対象になるのと同様に、ヤングアダルト小説は映画やドラマの原作供給源として機能しています。これまで紹介してきたヤングアダルト小説も、映画化あるいはドラマ化されたものは結構あるし、映画化されたことで本がさらに売れ出すという現象もあります。私が、アメリカ書店で手を伸ばした平積みのヤングアダルト小説たちも、映像化されたことで平積みされていたようでしたし。

興味ふかいことに、著者の山崎は「「大人が読むYA小説」は今やトレンドみたい。調査によると、アメリカでのYA小説の三分の一は、子供を持たない三十代から四十代の大人らしい」(『ヤング・アダルトU.S.A.』p.96)と言い、続けて評論家が「成長した大人が子供の読み物を楽しむなんて、恥ずかしい」と書いたらネットで炎上したとも紹介しています。「それくらい大人のYA読者は熱いんだよ」というのです。これは、ゼロ年代における日本のライトノベル読者とそっくり同じ現象ではないでしょうか。

この著者たちのような、「青春映画・ドラマ中心主義者」たちから見ると、たとえば2002年の映画『スパイダーマン』も学園青春映画の枠組み(特に学校内の人間関係)にSFの要素が入ったものになりますし、もちろん『トワイライト』みたいなバンパイアものは学園青春映画そのものということになります。つまり学園映画をベースにして、ラブロマンス、SF、伝奇、コメディ、様々な要素がミックスしてマルチ・ジャンル化を起こしていることになり、これも日本のアニメ・マンガ・ライトノベルの状況に大変よく似ています。(最近の日本は学校を舞台にしたものがいまひとつですが、、)

また、類型的キャラクターというのにも触れています。あるジャンルで作品群が量産されれば当然登場人物のキャラクターの類型化も進みますが、たとえばマニック・ピクシー・ドリーム・ガール(MPDG)というのが最近は良く出てくるらしい。無理やり訳せば「躁的不思議ちゃん」。奇矯なところがある美人で、主人公の平凡な男の子は彼女に振り回わされながら色々な体験に引き込まれていきます。『ペーパー・タウン』のヒロインなんかがその典型ですね。おそらくアメリカ人には、<涼宮ハルヒ>シリーズのハルヒも典型的なMPDGに見えていたはずです。

もちろん、当のアメリカ人たちはそういう「青春学園映画」をジャンル・ムービーとしてはあまり認識していないのですが、日本のポップカルチャーで大きな位置を占めているアニメ・マンガと似たような現象が、アメリカでは青春映画やドラマを中心として起きているんだと見ることは可能なのではないでしょうか。

ここで少し読者層というものも考えてみたいのですが、アニメやマンガの原作としてライトノベルを読む、映画・ドラマやの原作としてヤングアダルト小説を読むという需要は一定数あるにしても、読者がそれだけであるならば市場はごく限られたものになります。しかし、映像化されるまで誰も読まないならば、あるいは映像化前提で無ければ誰も読まないのであれば、こんなに多様な作品群は生まれようもありません。ライトノベルにしてもヤングアダルト小説にしても、それらが如何に映像メディアと親和性が高かろうとも、それを小説として享受する読者層が一定数存在するからこそ市場が成立しているのです。アニメやドラマを見ればあっという間に物語を知ることができるのに、わざわざ小説を読むのは、小説には小説の楽しみ方があるからです。

現に、2作を紹介したジョン・グリーンの小説だって、『ペーパー・タウン』ではホイットマンの『草の葉』が重要な役割を果たしますし、『アラスカを追い求めて』でも古典文学への言及が大変に多い。そういう小説を享受できるだけの素養を持った読者層がアメリカの中で、どのぐらいの割合を占めるのかは分かりませんが、そういう読者たちがヤングアダルト小説を享受していることは間違いないでしょう。

さて、アメリカにライトノベルの翻訳が現れた時に、手を出した熱心なアニメ・ファン(つまりオタク)は居たでしょうけれども、SevenSeas社、TokyoPop社、DelRayが相次いで撤退したことに顕著なように、商売としてはなかなか根付きませんでした。それは、それらのライトノベル翻訳では、普段小説を読む読者層の需要を満たせなかっただろうと想像できます。以前に紹介したように、それらの翻訳は、日本語での崩れた表現は端折ったり、簡単な英語で置き換えたものであり、物語の筋を追うぶんには分かりやすいかもしれない。しかし、ヤングアダルト小説という分野で揉まれてきた読者を相手にするには、物足りなかったものと想像できます。

ライトノベルの継続的翻訳に唯一成功したのはYenPress(現YenOn)ですが、彼らが最初に手をつけた全4作のラインナップに”Book Girl”/『文学少女』や”Kieli”『キーリ』といった、映像化展開が弱かった2作品を入れてきたのは興味深い。それらの作品では、アニメ作品のファンが購入することを見込めなかった筈ですから、YenPressは明らかにこれらを映像化を前提としない読者向けに出版しています。

そして以前に紹介したように、その頃のYenPressの翻訳ライトノベルは端正で明快で崩れたところがない英語であり、日本語の原文の崩れた文章は徹底して規範的な文章に置き換えられていました。我々の目から見れば、そういう英文は「ライトノベルっぽく」無いのですが、YenPressは敢えてそのような戦略を取ることで、(アニメやマンガへの素養と共に)小説も読むような読者も、とりあえず小説として読めるようにしたものと思われます。

という訳で「アメリカにおけるライトノベル翻訳の不振」について、ヤングアダルト小説を軸にして考えてみました。日本式アニメやマンガのようなインパクトを、ライトノベルがアメリカで発揮できなかったのは、すでに存在していたヤングアダルト小説群の水準に対抗できるような翻訳では無かったからでは無いだろうか、というのが私の推測です。

(報告:太田)


アメリカのヤングアダルト小説(4)

2016/03/04

前回は、YALSA(ヤングアダルト図書館サービス協会)が毎年発表しているトップテン・リストのヤングアダルト小説を見てきました。これとは別に最後に「売れ筋」を見ておきます。一番手っ取り早くamazonの関連カテゴリ(「ティーン向け」など)をいくつか見たり、ヤングアダルトを買い漁っていたために向こうからリコメンドしてきた、売れ筋と思える小説を何冊か求めてみました。

うち、2冊がジョン・グリーンの著作。書いた本は片端からベストセラーで、受賞歴も目白押しという売れっ子作家。第一作の”Looking for Alaska” (John Green, Dutton Juvenile, 2005)(邦訳『アラスカを追いかけて』白水社、2006)はニューヨークタイムスの子供向けペーパーバック小説のトップテン・リストに385週間(つまり7年以上)連続掲載されたという記録があります。

Looking for Alaska

フロリダの公立高校からアラバマの全寮制私立進学校に転向してきたマイルスというのが主人公。ルームメイトのチップスと意気投合し、友達でヒップホップの達人であるタクミと、美人で頭も良いけれど不安定なところがあるアラスカを紹介されます。物語の前半は、彼らと共に過ごす、やや荒っぽい寄宿舎生活が描かれます。

転校してきて早々に、マイルスは新入りの通過儀礼として裸にされて池の中に放り込まれるんですが、念入りなことに粘着テープで手足を拘束した上で放り込まれるという、かなり手荒な扱い。チップスやアラスカに敵対している「ウィークデイ・ウォーリアス」というお金持ち子弟のグループから目をつけられた結果なんですが、それに対する報復合戦というのがロクでもない。部屋に置いてあるスニーカーに小便をかけるであるとか、部屋の中にホースを突っ込んで放水するとか、シャンプーと整髪用ジェルに青い染料を入れておくだとか、先生のコンピューターをこっそり使って敵対側の親に偽の報告書を送りつけるだとか、そういうことをしでかしては部屋や隠れ家で気炎を上げ、酒とタバコに明け暮れる学校生活が展開します。初めてキスをした男女が、そのままオーラルセックスに挑むものの、やり方が解らず、女友達のところに聞きに行って歯磨きチューブで実演してもらうというような、可愛いというか、あっけらかんとした描写まであります。

そんな中で、主人公のマイルスは憧れのアラスカとの距離を詰め、キスするところまで行くのですが、その夜に一本の携帯電話がかかってきて、アラスカはヒステリックに反応。酔ったまま車で出かけ、ほとんど自殺のようにも見える交通事故で死亡します。

物語の後半は、アラスカという女の子が何を考えていたのか、恋人がいながらマイルスともキスした真意は何だったのか、そういうことに思い悩み、宗教学の授業を聞きながら死の意味を考え、チップスや仲間と共に事故の真相を追求していく過程を描きます。数ヶ月をかけて、彼らはアラスカの死を受け入れ、アラスカが卒業式用に温めていた悪戯のプランを実行し、気持ちを整理するというのが物語の粗筋になります。このアラスカのプランというのが実に下らないのですが、もしご興味があれば絶版になっている邦訳を手に入れるか、ネットの英語のサイトで検索していただければと思います。(あるいは製作が遅延していた映画が完成すれば、それで見られるかもしれません。)

この話は、著者の実体験がかなり色濃く反映しているとされおり、著者の在学中に似たような生徒の交通事故死があったし、本の中に出てくる一連の悪ふざけも、実際に行われたものらしい。高校生の風俗を描くと共に、愛と死について思い悩む古典的な物語でもあります。

なお「アメリカのヤングアダルト(1)」で紹介した『僕とアールと死んでいく女の子』では、主人公は生存戦略として高校の中のどのグループにも深く関わらず、等距離を置いていましたが、「怯え過ぎじゃないか」と思う人もいたかもしれません。しかし、この本や他の学園ものYAを読んでいると(あるいは、アメリカの青春TVドラマを観ていただければ)現在のアメリカの学校の中のグループ間対立というのは、かなり半端無いんだなということはかなり容易に想像できます。

同じ作者による”Paper Towns”(Speak, 2012)(邦訳は金原瑞人訳『ペーパー・タウン』岩波書店、2013年)はフロリダのオーランドを舞台にした、やはり高校生たちの物語。

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主人公の男の子(クエンティン、愛称はQ)の部屋の窓に、深夜、隣に住む幼馴染で同級生の女の子(マーゴ)がやってきて、「ミッション」を手伝えと強要してきます。恋人の浮気で「卒業間際の高校生活を台無しにされた」ことに対して復讐を誓ったんだそうで、一晩で11のミッションを完遂させるから、車を運転しろというのです。そのミッションというのがロクでもない悪戯ばかり。セックスしている真っ最中の元彼をパンツ一丁で浮気相手の家から追い出し、局部をパンツからはみ出させたまま路上を走っている様を恐喝用の写真に撮り、浮気相手の女の子の部屋にはナマズを放り込み、ボーイフレンドの浮気について沈黙していた友達の家や車の中にもナマズを放り込み、ついでにQを虐めていた同級生の家にも忍び込んで、片方の眉毛に脱毛クリームを塗り、、といった具合。最後は近所のディズニー・シーワールドに忍び込むという、もはや復讐とは何の関係もない「ミッション」。アザラシの水槽の前で、Qとマーゴは踊ります。

街中の何軒もの家をトイレットペーパで「飾り付ける」などの悪戯に同級生たちを動員するような、「超」がつく程のアクティブで、エキセントリックで、学校のカリスマ女子生徒で、幼い頃からの片想いのマーゴの「ミッション」に、Qは一晩中付き合うことで、憧れの彼女との距離を一気に縮めるのですが、その翌日に彼女は学校からも家からも姿を消します。

彼女が失踪するのは今までにも何回かあったし、その度に彼女の伝説が増えていたので誰もがまた戻って来るだろうと考えていたものの、何日経っても彼女は戻ってこない。そのうちに、Qはマーゴが自分宛に失踪先の手がかりを残していったのではないかと考えるようになり、友人のベンとレイダーの3人で捜索を始めます。Qの自室から見える場所にこれみよがしに新たに貼られていた一枚のポスター、そのポスターの元になったレコードジャケット、そのレコードの曲名のひとつにマークが書き込まれ、曲名が示すホイットマンの詩集『草の葉』の中に青と緑のマーカーで示された詩句、、、そうやってマーゴの残した手がかりを追っていくうちに、Qはマーゴという人間のそれまで知らなかった一面を知っていくことになります。幅広い音楽の趣味を持っていたことも、廃墟の中で一人で時間を過ごすことを好んでいたことも、学校の誰も知らなかったし、幼馴染のQも想像すらしていませんでした。

Qは『草の葉』を読み込むことで、マーゴが何を考えていたのか知ろうと時間を費やしますが、彼の身の回りでは卒業を控えた最終学年の馬鹿騒ぎが同時進行し、友達のお調子者のベンは待望のガールフレンドを得て、プラム(卒業記念のダンスパーティ)にカップルで出席できることになって浮かれ、狂騒的に物語は語られていきます。卒業式の直前になってQはマーゴの居場所を突き止め、卒業式を放り出して仲間とともに、車でフロリダからニューヨーク郊外まで20時間かけて高速道路を疾走。そんな物語です。

キャラの濃い女の子に振り回される平凡でゲームが好きな弱めの男の子が主人公という設定、高校生の馬鹿騒ぎのエピソードが随所に挟まれるところ、途中でいなくなった女の子の実像を物語の後半で追い求めるというプロットの立て方などは『アラスカを追い求めて』と同様です。ただ、作者の実体験が色濃く反映したらしいデビュー作よりは、『ペイパー・タウン』のヒロインはキャラの造形が進んでいるように思えます。日本のライトノベルを読みなれた目で見ると、マーゴが涼宮ハルヒに重なったりもするのです。他にも友達のレイダーはウキペディア(作中では「オムニクショナリー」ですが、どうみてもウィキペディアです)の編集に身も心も捧げていて、いつ電話しても「今、××の記事の編集荒らしを修復したところだ」みたいなことしか言いませんし、親はギネスブックに載るくらいのブラックサンタのコレクターで、家はブラックサンタだらけでガールフレンドを家に呼べないと嘆いている。ついでに書いておくと『アラスカ』の主人公は偉人伝に出てくる「臨終の言葉」コレクターだし、ルームメートのチップスは、万国の首都を丸暗記していて、総人口も丸暗記している最中でした。このあたりは、アメリカのコメディ・ドラマに綿々と受け継がれてきたスクリューボール(変人)・コメディーの影響のように思えます。(もっとも、物語の途中からキャラの裏側にあるヒロインの<内面>が焦点化されるあたりは、キャラ小説の枠には入ってないことも書いておきます。)

 

何よりも、主人公による「語り」はライトノベルを彷彿とさせるところがあります。もちろん「若い主人公による一人称の語り」というのはアメリカではサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』あたりに遡れる古い伝統だし、日本だって庄司薫『赤ずきんちゃん、気をつけて』や栗本薫『ぼくらの時代』あたりにまで遡れ、今に始まったことではありません。ただ、メイナード・泉子『ライトノベル表現論』で指摘されているような、心内会話文と実会話の連続であるだとか、実発生音の表記であるだとか、その種のメイナードが言うところの「語り手が読者に対して親しさを演出する」表現が、これらの作品に頻出していることは確かなのです。俗語表現はかなり多いですし、方言も頻出します。

例えば、テレビゲームをやりながら登場人物が喋るシーンでは、主人公への返事とスクリーンへの罵倒が入り混じったセリフになります。

レイダーは僕の話に支離滅裂な返事をした。リザレクション(引用者注:TVゲーム)をプレイ中だとこうなる。「おれはマーゴがいなくなった理由だってわからない。単なる六時の方向に小鬼だおいなにやってんだレーザー銃使えよ失恋とかじゃないの?マーゴはそういう地下室の場所は左だ方面には動じないタイプだと思っていたけど」(邦訳『ペーパー・タウン』p.133)

引用したのは邦訳ですが、原文でもピリオドやコンマを欠いた罵倒文が挿入されていました。ものを食べながらの会話では、

“Dude,” Takumi responded, “yaw guhwend,” and then he swallowed a bite of food, “is a Weekday Warrior.”   (“Looking for Alaska” p.23)

「よう、」タクミは応えた。「おむぁぇのぐぁーるふれんどだって」と言ったところで口の中を飲み込み「ウィークデー・ウォーリアだろう」。

みたいなセリフが出てきますし、1行段落文も出てきます。

To me. (“Paper Town p.133”)

僕に。(邦訳『ペーパー・タウン』p.166)

酔っ払った同級生がわめき散らしている様は

“YES YES YES YES YES YES YES YES YES YES YES YESSSSSS!!! YES! YES!” (“Paper Town” p.177)

のように表現されます。心内会話文は随所に出てくるのですが、

「(…) Qはみんなに好かれてるなんてどうでもいいんでしょう」

そうともいえるし、そうじゃないともいえる。「僕は自分で思うより気にしてるよ。(邦訳『ペーパー・タウン』p.230)

のように、相手からの問いかけに対して、まず心内会話で受け、それから実際の発話文が続くというようなことも行われています。

なお、この二つの小説は古典文学への言及がかなり多い。『ペイパー・タウン』では『草の葉』の解釈が物語の途中で延々と語られることになるし、『アラスカを追い求めて』もアラスカが大変な読書家なので、文学作品の引用が頻発します。そしてそれが、物語の進行にも重要な役割を果たすし、読者に対する一種の文学案内にもなっています。まるで、日本のラノベで『文学少女』が果たしたような感じでした。

このほか、ジョン・グリーンには”The Fault in Our Stars”(邦訳『さよならを待つふたりのために』岩波書店、映画邦題『きっと星のせいじゃない』2014)という肺癌のヒロインと片足の主人公が旅をする純愛小説もあったりします。

これらのアメリカの青春小説は確かに「ライトノベル」ではないんですが、しかし、癖の強いキャラクターの配置や、プロットの立て方(ex.女の子に振り回される男の子)、語り、そういった個々の要素は、日本の(ライトノベルを含む)若年者向け小説と共通するところがいくらでも出てきます。

アメリカでライトノベル翻訳がなかなか普及出来なかったのは何故なのか。それを考える上では、こういった既存の物語文化が作り上げていた基盤みたいなものを知っておかないと、なかなか答えは出せ無いのではないかと思います。

(報告:太田)


その後のアメリカのライトノベル翻訳(2015)

2016/02/25

何度か紹介してきた、アメリカのライトノベル翻訳の話ですが、ライトノベルに手を出した出版社が倒産するか撤退した中で、唯一生き残ったYenPress (最近はYen Onというレーベル名)が好調なようです。以下に最近出ているものの書影を並べていきます。

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“A Certain Magical Index” (『とある魔術のインデックス』)

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“DRRR!!”(『デュラララ!』)

IMG_20160225_0014_NEW“The Devil is a Part-Timer”(『はたらく魔王様!』)

IMG_20160225_0011_NEW“Log Horizon”(『ログ・ホライゾン』)

IMG_20160225_0015_NEW“No Game No Life”(『ノーゲーム・ノーライフ』)

IMG_20160225_0016_NEW“Kagerou Daze”(『カゲロウデイズ』)

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“Strike the Blood –The Right Arm of the Saint”(『ストライク・ザ・ブラッド -聖者の右腕』)

『ハルヒ』に続いて『狼と香辛料』『キーリ』『文学少女』の全巻刊行でライトノベル翻訳のベースを作ったYenPresですが、それらのどちらかといえばアメリカのヤングアダルト小説の枠内に収まりそうなラインナップから、本格的にライトノベルに入り込んでいている感じはします。翻訳する本の選択基準は今ひとつわかりませんが、米国内でのアニメやマンガで好評なものを選んでいるのかもしれません。少し変わったところでは

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“Pandra Hearts”(『小説パンドラハーツ』)

 

みたいにオリジナルが漫画作品であったものを小説化したものを翻訳したものもあります。 また、川原礫の『ソードアート・オンライン』『アクセル・ワールド』はかなり好調らしく、”The Isolator”(『アイソレーター』)はハードカバーで出されていました。
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“Sword Art Online”(『ソードアート・オンライン』) IMG_20160228_0001“Accel World”(『アクセル・ワールド』)

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特別扱いのようです。YenPresからハードカバーで出版された例としては、少し以前に綾辻行人『Another』の例があります。
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(報告:太田)

 


アメリカのヤングアダルト小説(3)

2016/02/19

ということで、私が手に取ったアメリカの最近のヤングアダルト小説を何本か紹介してきましたが、私がジャケ買いした本ばかりですから、ヤングアダルト小説の全体を見通すというには不向きなリストです。そこで、全米図書館協会の下部組織であるYALSA (ヤングアダルト図書館サービス協会)が発表している2015年度のフィクション部門のBest10リストの本を並べてみることにしました。実は、前々回に紹介した『僕とアールと死んでいく女の子』はこの2013年のリストのトップに上げられていた作品でもあります。全部読むのは無理だったんで、本をざっと見た上でブックレビューなどから集めた情報で紹介します:

carnival at Bray

“The Carnival at Bray” (『ブレイのカーニバル』)By Jessie Ann Foley. Elephant Rock,

シカゴからアイルランドに引っ越してきた16歳のマギーが、初恋と死の衝撃に晒され、ニルバーナのローマ・コンサートを観て死のうとするも、そこから立ち直る、、、グランジ・ロックをバックグラウンドにしたかなり、かっちりとした青春小説みたいです。途中、手書きのメモ書きが挿入されたり、本文に手書きのアンダーラインが加えられたりしています。

Cross over

“The Crossover” (クロス・バー)By Kwame Alexander. Houghton,

アフリカ系アメリカ人の双子を主人公に、バスケットボールと親子関係や兄弟愛をテーマにした物語なんですが、全編、詩だけで構成されているという作品。ひょっとしたら、ラップで歌えるように出来ているのかもしれません。

Cross over verse

 

Gospel winter

“The Gospel of Winter” (冬のゴスペル)By Brendan Kiely. Simon & Schuster/Margaret K. McElderry,

崩壊家庭に育ち、信頼した神父様にも裏切られた少年が愛と信頼を取り戻すまでの物語。概要を読む限りでは、社会派っぽいですね。

Give you the sun

“I’ll Give You the Sun” (君に太陽をあげよう)By Jandy Nelson. Dial

双子の姉弟ジュードとノアが、13歳から16歳までの時間を前後しながら交互に物語ることにより、少年期のすれ違いや、愛と信頼についてドラマティカルに描いているそうです。

Jagaby

“Jackaby” (ジャカビー)By William Ritter. Algonquin

19世紀末のニューイングランドを舞台に、連続殺人事件を巡って繰り広げられるシャーロック・ホームズを彷彿とさせる推理劇、、、である模様。

Noggin

“Noggin” (『アタマ』)By John Corey Whaley. Atheneum

白血病で死んだ16歳のトラビスは、頭を切り離されて冷凍保存される。5年後に、ドナーの身体に頭を移植されて生き返る。しかし、死の床でゲイであることを告白してきた親友のキールは引きこもっており、ガールフレンドだったケイトは別の男と婚約していて、トラビスは状況を引っくり返すべく奮闘を始める、、、レビューには”character-driven” 小説とあり、キャラクター小説的な要素が強いようです。

Owen

“The Story of Owen: Dragon Slayer of Trondheim”(『オウエン物語:トロンドヘイムの竜退治』) By E. K. Johnston. Carolrhoda/Lab

タイトルと表紙に描かれた現代風のデイバックを背負った青年から大体想像はつくと思いますがファンタジー。異世界ファンタジーではあるもののカナダが舞台で、町々を襲う竜を退治することを家業にした家に生まれた、オーエンという少年が主人公。

Vango

“Vango: between sky and earth” (『ヴァンゴ 空と大地の間で』)By Timothee de Fombelle. Candlewick

両大戦間期のヨーロッパで、殺人容疑をかけられた神学生ヴァンゴが、容疑を晴らし、自分の出生の秘密を解き明かすために、船や列車そして飛行船を駆使してヨーロッパの中を縦横無尽に逃げ回る冒険活劇。

We are Liars

“We Were Liars” (『僕達は嘘つき』)By E. Lockhart. Delacorte

ケープコッドの私有島で毎年の夏休みを過ごしてきたケーデンスは、15歳の時に島で起きたことがどうしても思い出せず、霞がかかった記憶と偏頭痛と戦いながら、真相を探ろうとするというミステリー小説。

young elite

“The Young Elites” (『ヤング・エリート』)By Marie Lu. Putnam

熱病の後、異能力を身につけた少女は家名を傷つけるものとして家から追放されるが、そういった異能の者たちを危険な「ヤング・エリート」として探し出し、殺そうと目論む集団と、それに対抗する「ヤング・エリート」の集団が対抗しているのだった、、、というような異世界ファンタジー。

 

と、まあ、こんな具合です。いかにも青春小説っぽいのや、異世界ファンタジー、前時代を舞台にした冒険活劇、バラエティーに富んでいて、日本のライトノベルに近そうなのは”Nogging”(『アタマ』)ぐらいでしょうか。まあ、他の年度のリストを見れば、前々回に取り上げた『僕とアールと死んでいく女の子』(2013年度リスト)みたいなものもありますし、2010年度には”The Reformed Vampire Support Group” (『ヴァンパイア更生サポート施設』)Catherine Jinks, Harcourt/ Houghton Mifflin Harcourt. 2009なんて作品がありました。もう人間の血を吸わないことを決意して更生しようとしている吸血鬼の自助グループを描いたもので、アメリカの女の子に大人気のヴァンパイア小説を、アルコールやドラッグ中毒患者が作る自助グループのイメージを使ってパロディに仕立て上げたものです。そのように、日本のライトノベルに近い小説は、ちょこちょこと入ってきてはいるようです。

もし、日本のどこかの団体が「10代の読者のためのベストリスト」を作った時、ライトノベルから何冊入るだろうということを考えて貰えば、YALSAのトップテンリストにおいて、その種の小説はそこそこ健闘しているように思えるのですが、いかがでしょうか。

この他、amazonのヤングアダルトのカテゴリーでの売れ筋リストからも、何冊か紹介してみようと思ったのですが、次回に回すことにします。


アメリカのヤングアダルト小説(2)

2016/02/18

前回の紹介では『僕とアールと死んでいく女の子』の紹介が長くなってしまいました。今回は、各作品をもうちょっと簡単に紹介しておきたいと思います。

アメリカの書店や国際線ターミナルの英語書籍のコーナーでよく見かけたのが、”The DUFF: Designated Ugly Fat Friend”(Kody Keplinger, Little, Brown and Company, 2010)でした。前回の『死んでいく女の子』と同様に映画化されていますが(映画の公開に合わせて書店に並んでいたのでしょうが)、直訳すると「指定された醜い太った友達」で何のことかよく分かりません。どうも、「男の子たちが注目するイケてる女の子の周辺に居て、ぱっとしない風貌で引き立て役になっていて、本命の女の子にアクセスするためにとりあえず声をかける程度の女の子」ぐらいの意味らしい。「ブス枠」みたいなニュアンスが一番近いんじゃないかと思います。

DUFF

主人公のビアンカは17歳の高校生で、ある日フットボール部員のウィーズリーから「君はDUFF:ブス枠だと、失礼極まりない指摘をされるところから話は始まります。実際、彼女がいつも一緒にいる二人の友人ケイシーとジェシカは、とりわけイケて(hotで)いて男の子たちに人気なのに、ビアンカは頭はいいけどノリが悪くてぱっとしない。二人がダンスフロアーの中央でお尻を振って踊っているのを、バーカウンターから醒めた目で見ているばかり。

で、ここまで読んで、後はネットのブックレビューからの情報なんですが、自分のプライドを保ちながら好きな男に振り向いてもらえるためにはどうすればよいのかを巡って、ビアンカが汲々とするラブコメディ。「ブス枠」呼ばわりされて最初は憎んでいた「女ったらし」のウィズリーとも最後は恋仲になるという、まあラブコメの王道の展開でもあるらしい。

作者は17歳の時に(つまり主人公の設定年齢で)この小説を書き、それもこの本の評価を高めたようですし、今のティーンエイジャーの心境を正直に表現した作品として認められたようです。Fuckだとかの「汚い」言葉も結構主人公の口から出てくるし、文章もかなり口語的にくだけています。レビューの中には「リベラルな人にはお勧めするが、保守的な人にはセクシャルな内容も含まれているのでお勧めしない」ともありました。私は本文の中から探し出せていませんけれども、オーラルセックスのシーンもあるらしいです。17歳の女子高生が、同年の女の子を主人公にした小説を書いてそのまま出版デビューするというと、古い人間はフランスのフランソワーズ・サガンなんて人を思い出してしまいますし、日本でも時々17歳で注目を集める女性作家は出てくるし(堀田あけみ、綿矢りさなど)、ケータイ小説の作家にも17歳は居そうだし、こういう作家はアメリカでも出てくるんだなあと思った次第です。著者紹介の写真を見たら、確かに太っていたので、主人公に自分を強く投影したんだろうなということは推測できました。 DUFF author

次に紹介するのが”I am Princess X”(Cherie Priest, Arthur A. Levine Books, 2015)「私はプリンセスX」。これが目立った置き方になっていたのは、多分出たばかりの書籍だったからでしょうが、私の興味を引いたのは、その表紙でした。バスケットボール・シューズを履いて日本刀を構えた「プリンセスX」がファンシーすぎたからでしょう。

PrincessX

小学校5年生の時にリビーとメイは「プリンセスX」というキャラクターとマンガを合作します。しかし、数年後リビーと母親は車ごと橋から川に落ち、母親の遺体は発見されるものの、リビーのは見つからず終いでした。さらに数年後、メイは街角でプリンセスXのステッカーを見つけます。それは、紛れもなくメイとリビーが作り上げたキャラクターに間違いなく、メイはその後も同じようなステッカーを続々と見つけていきます。それらのステッカーから、メイはiamprincessX.comというインターネットサイトを知り、そこに掲載されていた「私はプリンセスX」というウエッブ・コミックを読み始めます。

そのコミックは、プリンセスXが母親と一緒に車で川に落ち、「針男」によって助けられるものの監禁されること、そして母親の霊に導かれて針男の家から脱出し、冒険の旅を続けているという内容でした。「私はプリンセスX」の作者は謎に包まれていたために、メイは大学生ハッカーに協力を依頼。コミックの中に書かれている鍵を頼りに、作者の正体を探ろうとする、、、というのが粗筋です。

文章は極めて読みやすく、スラングは見当たりません。大きな特徴は「私はプリンセスX」のコミックがそのまま挿入されており、小説とコミックのハイブリッド作品になっていることでしょう。日本刀を構えたプリンセスという出で立ちが、いかにも「戦闘美少女」なので日本のポップカルチャーの影響を疑いたくなるところですが、作品全体から見ると「瑣末な趣向」程度のもののようです。
PrincessXcomic

 

もうひとつ、ジャケ買いしてしまったのが”Spirit’s Prinsess”(Esther Friesner, Bluefire, 2012)『魂のプリンセス』。AKBの渡辺麻友に似てなくもない東洋系の女の子が和服で走っているので「何だ?」と思ったのですが、3世紀の日本を舞台にした「ヒミコ」という名のプリンセスの冒険小説。 SpiritsPrincess

ロシアの方向に韓国があるという極めて大雑把な日本地図が掲げられていて、この頃の日本には長野県あたりに「シカ族」がいて、岐阜県南部あたりに「マツ族」がいて岐阜県北部あたりに「オオカミ族」がいて金沢あたりに「トドマツ族」がいたことになっています。

SpiritsPrincessMap

まあ、一時期アメリカのSFに現れた「勘違いジャポニズム」作品などから比べれば、微笑ましい部類に属するのではないでしょうか。続編も出ていますが、『神話のプリンセス』というシリーズもののひとつで、他は古代ギリシャだとかエジプトが舞台になっていました。この種のファンタジー小説は結構たくさんの本が出ているようです。

Twoboykissing

もうひとつのジャケ買いは”Two Boys Kissing”(David Levithan, Ember, 2013)『二人の少年がキスしてる』。もう、タイトルそのまんまの表紙。ひょっとしてBLだろうかと思って買ってみたのですが、そうではなくてゲイの少年たちの群像小説。あえて言うならGLBT(性的マイノリティ)小説というところでしょう。ダイバーシティ(多様性)を標榜するアメリカらしいといえば、らしいジャンルです。様々な立場のゲイの少年たちを描いているのですが、その中に出てくる「キスの世界最長記録をゲイのカップルから出そう」と励んでいるクレイグとハリーという偽装カップルの話がタイトルになったようです。


アメリカのヤングアダルト小説(1)

2016/02/17

日本のライトノベルのアメリカ進出がアニメや漫画に比べると苦戦しているという話を以前、書きました。その理由として、「アメリカ市場には、すでにヤングアダルト小説という市場が成立していたから」という説があるそうです。

実のところ、この説の出所が私にはよく分からないのですが、言われてみるとそんな気がすることも確かです。以前、アメリカのファイトノベル翻訳事例を紹介した際に、『涼宮ハルヒの憂鬱』の翻訳は少女小説として受容されたのではないかと私は書き、その傍証としてアメリカの少女小説の売れっ子作家だったメグ・ギャボットの『プリンセス・ダイアリー』だとか『メディエイター』といった小説を引き合いに出しました。メグ・ギャボットの小説を読んでいると、癖のある(キャラが立っている)登場人物であるとか、奇矯なプロット、ジャンル横断的なプロットなど、日本のライトノベルの雰囲気と似たところがあるのです。以前の紹介の繰り返しになるかもしれませんが、両作品の紹介をしておきます。

たとえば『プリンセス・ダイアリー』は、ヨーロッパの小王国の皇太子が癌で睾丸摘出したために、世継ぎが残せなくなってしまい、若い頃のアメリカ留学中に恋人に産ませた女の子に王位継承権を与えることになったというところから始まるシンレデラ・ストーリーですが、「癌で睾丸摘出」みたいな、あられもない小ネタがバンバン入ってきます。主人公のおばあさんに当たる王女様が、孫娘に「上流階級のたしなみ」のお手本を示そうとしてマンハッタンの街中で浮浪者に慈善を施すと、その浮浪者がいきなり自分の局部を露出したり、、、この小説を原作にしたディズニーの映画では、そういった下ネタは全て無視されましたけど、この種の適度に下品な話が入ることで楽しめる本であることは確かです。

『メディエイター』は幽霊が見える女の子の話ですが、革ジャンを着こなして学校でファッションリーダーになっている主人公は妙に乱暴です。いきなり幽霊の胸ぐらを掴んで蹴りを入れながら成仏を強要したりするのです。(少し古い読者としては「幽霊の胸ぐらって掴めるんだろうか」とツッコミを入れたくなるようなシーンですが、日本マンガの『Breach』は冒頭から主人公が幽霊に蹴りを入れてましたよね。)この主人公、インターネット検索で調べたブードゥー教の降霊術をやって指南役の神父さんから嫌な顔をされたり、イケメンの幽霊と恋仲になったり、そのイケメン幽霊の過去を探りにタイムトラベルしたり、やりたい放題。コメディ、ロマンス、怪奇、タイムトラベルとジャンル横断的にネタを投入していく語り口は、日本のライトノベルに大変近いものがあります。

ということで、「マンガやアニメ風のイラスト」の有無を置いておけば、ライトノベルっぽいジャンルはアメリカでは既に成立していたのではないか、と私は感じていました。もちろん、それがライトノベル翻訳小説の導入障壁になったというのは少し短絡的です。似たような作品群がすでに有ったのであれば、導入は容易だった筈とも言えるのですから。ただ、アメリカの10代の読者たちから見て、ライトノベルという小説群は内容的にそれほど目新しく無かったんじゃないでしょうか。そんな想像はつきましたが、この話はそのままになっていました。本当は、もうちょっとアメリカのヤングアダルト小説を読んでみないと何かが言えるわけじゃないのに、私は実物を読んでいないのですから。

昨年夏にたまたまアメリカに行った際に、アメリカの書店でグラフィックノベル(マンガ)の書棚やヤングアダルトの書棚を見て回り、平積みになっていた本を幾つかチェックし、Amazonで購入してみたのですが、これが中々面白い。今回、何冊か紹介しておきます。

DyingGirl表紙

一つ目はJesse Andrews ”Me and Earl and the Dying Girl” Anulet Books, 2012(『僕とアールと死んでいく女の子』)。最初、このタイトルを見たときに”Me and Real and the Dying Girl”(『僕とリアルと死んでいく女の子』)と読んでしまい、「なんだ、この中2病っぽいタイトルは!」とか思ったのですが、よくみると”Earl”で、これは主人公の友達の名前でした。

とはいえ、ハイスクール最終学年の男の子が語り手となって、白血病で死んでいく同学年の女の子との一件を語るという、ベタといえばベタな話です。まるでアメリカ版『地球の中心で愛を叫ぶ』(片山恭一)じゃないかと思いきや、主人公は死んでいく女の子について恋愛感情を持っていないし、話はラブストーリーとしては展開しないと作中で何度も繰り返します。

冒頭はこう始まります。
「起こったこと全てを理解してもらうためには、高校はクソだという前提から始めなくてはいけない。この前提を受け入れてもらえるだろうか?もちろんだろう。高校がクソだというのは普遍的真実だからだ。実際、高校というのは人生の基本的実存的問題:クソみたいに最悪な場所で人は如何に生存が可能か?が最初に導入される場所であるからだ」

続いて主人公は通っている高校とその地域、そして生徒たちの社会階層を概説した上で、学校の中がグループに細分化され互いに排斥し合っている様子を事細かに描写していきます。教会系グループ、黒人スポーツ系、秀才系、演劇系、ドラック系、ギャング系、バンド系、、、そういう学校内勢力関係の中で、主人公はどのグループにも属さず、かつ全てのグループと疎遠にもならない程度に軽い挨拶程度の友好関係を保ちながら、学校の中を渡り歩くという戦略をとって生活しています。こうなるとスクール・カーストを描いた『野ブタを。プロデュース』(白岩玄)であるとか『桐島、部活やめたってよ』(朝井リョウ)のような小説にも思えてくる。

その一方で、この本にはキャラクター小説的な側面があります。学校のマッカーシー先生はスキンヘッドで二の腕はタトゥーで覆われ、何事につけ「事実」にこだわる先生。保温器にいれた「ご神託を伺うための」ベトナム・スープを一日中飲んでいるのですが、どうもマリファナ入りスープらしい。主人公の父は、音大の教授だけど一学期に一コマか二コマしか授業を担当しておらず、いつも家にいて毛布に穴が開いただけのようなムームーを着て、リビングルームの揺り椅子に揺られて壁を見つめ、飼い猫に話しかけています。80年代にパーティー漬けの生活を送ってドラッグとアルコールで脳味噌がイカれたんだろうというのが息子の推測。母親は元ヒッピーで、イスラエルに住んでいた時期があり、息子には詳しいことを話さないものの、ユダヤ人なのにサウジの王族をボーイフレンドにしていた時期がどうもあったらしい。今は、夫には好きにさせて、自分は十代の若者をイスラエルのキブツに送り込むNPOの仕事をしています。これが正しいと思ったら、他人がどう思おうとそれをやり通してしまう強い意志の持ち主。というか、傍迷惑なおばさん。

ともかくも主人公が、ある日部屋でパソコンの壁紙に映ったヌード写真に勃起したペニスの処置に困っているところに、この母親がやってきて、幼馴染のレイチェルが白血病であることを告げ、今彼女は友達が必要な時だから彼女に電話をしろと強要します。母親に逆らったところで益が無いことを知り抜いている主人公は、渋々レイチェルに電話をかけ、無理矢理に会話を繋げようと苦戦する主人公と、それをそっけなくあしらう彼女とのあまり盛り上がらない会話が、ずるずると続いていくのがインストーリーといえばメインストーリとなります

ところで、主人公は同級生で黒人のアールと二人で10歳の時から映画を撮っていて、それを学校では秘密にしています。崩壊家庭でヤクの売人などをしている義兄たちと生活しているアールと、中産階級の主人公は普通なら友人関係は成立しそうにないのに、二人の映画共同制作者としての関係は強固に維持されています。彼らがこれまで撮ってきた映画というのが以下のようなものばかり。
『その後に黙示録』:バンダナを被って水鉄砲を持ったイールがアップになって写り、カメラに向かって、世界の終わりはいつ来るんだと尋ね、「まだ先だよ」という返事に対してカメラに向かって罵りまくるのを延々繰り返すだけ。
『スター・ピース』:砂箱の中に置かれた2体のロボットから、君は念力が使えると話しかけられたルーク・クレージーバドアスが水鉄砲を持ってバイクに跨り一般人を追い掛け回して警察に捕まる。本当に警察に捕まって未完成。
『ヘロー、グッド・ダイ』:ソックパペット(靴下人形)のジェームスボンドがベッドで目覚めると、その横で寝ていた美女もソックパペットだった。
『キャット・アブランカ』:動かない猫が映っているだけ。
『バットマンV.S. スパイダーマン』
バットマンとスパイダーマンが、それぞれ飼っているコウモリと蜘蛛を戦わせようとするが、両者はまったく戦おうとしない。

どの映画もまったくプロットが無いのは、10歳の時に父親のDVDで観た『アギーレ 神の怒り』というアートシネマを二人がいたく気に入っていた影響らしい。つまり、この二人はかなりコアというか、変な映画少年ということになります。

ある日、マッカーシー先生の昼食のフォー(ベトナム麺)を盗み食いした二人は、そこに入っていたらしいドラッグでハイになってしまい、その勢いで二人でレイチェルに会いに行き、アールが映画作りのことをレイチェルに話し、彼女に二人が製作したDVDを貸すことを約束します。

不思議なことに、レイチェルは二人のDVDを気に入ったらしく病床で繰り返し観るようになります。そのうちに、DVDの内容は秘密にしてあるにしても、主人公とアールの二人が映画を作っているという話がレイチェルから友達に漏れ、その友達が主人公に「レイチェルのために映画を作ってよ」と提案してきます。それが、同級生の中でもとびきりにイケてる女の子で、昔に好きだったこと(そしてあっさり振られたこと)があったものだから、主人公が曖昧に返事すると、それがあっという間に学校中に伝わって主人公は後に引けなくなります。

“Rachel the film”と題された映画の製作は困難を極めます。同級生やら先生のメッセージビデオをつなぎ合わせれば何とかなると思いきや、誰も彼もロクなメッセージを録画してこない。それを編集したところで、死んでいく女の子のためになるとは、どうしても思えない。レイチェルのライフヒストリーをドキュメンタリーとしてまとめようとして、遠くの街に住む祖父母に電話でインタビューを申し込むものの、耳が遠いのかボケかけているのか話がまったく通じない。ホームビデオを何本か借してもらうものの、レイチェルがあまり幸せでは無い(特に離婚した父親との関係が良さそうでない)ぱっとしない少女だったことが分かるだけで、死に際に届ける映画としては使えそうもない。白血病を擬人化して、クレイアニメ(コマ撮り実写アニメ)で白血病(ダース・ベイダー)とレイチェルとの戦いを描こうかとも計画するものの、膨大な時間がかかるのでレイチェルが生きているうちに完成は不可能。いくつものプランを考えては破棄していく内に、主人公の学校の成績は急降下。煮詰まった主人公がアールと初めての大喧嘩もやった挙句に、製作者二人の気持ちをカメラに向かって語るだけの無編集ビデオ・レターが”Rachel the film”としてDVDに焼かれてレイチェルに渡されます。

ところが、レイチェルが寝ている最中に盗み見したレイチェルの母親がこれを主人公の母親に伝え、主人公の母親は学校の先生に伝え、学校の先生はこれを学年集会でサプライズ上映します。主人公がしどろもどろにカメラに向かって語るだけの「映画」は、これを鑑賞させられた同級生たちの不興を買います。全ての勢力と等距離外交することによって維持してきた、主人公の学校内のポジションは失墜し、彼は引きこもってしまい、しばらくしてレイチェルは死にます。

死んでいく女の子のために伝えるべきメッセージは、本当にあれで良かったのか主人公が延々と悩み続けるシーンや、女の子の死を知った時のやるせない気持ちの描写などは、「白血病文学」の典型というか常道ですが、それを恋愛感情から切り離して描いたところに、この小説の妙味はあります。

以上がこの物語のあらすじなのですが、文章も妙な癖があります。YenPressの翻訳ライトノベルなどでは、ほとんど見られないfuck, shitなどの俗語表現はかなり多いですし、アールの言葉遣いには特にそうです。つまり、黒人の「役割語」をアールは喋っていることになります。

”Fuckin nobody, Errybody at school give a shit about you, man.”
(「クソッタレに誰も居ないんだよ。学校のぜーんぶがテメエにクソしてんだ」)。(p.249)

ここではEverybodyがErrybodyになっていますが、この他にもaboutがbout、becauseがcuzなど様々な訛りの表記が見られますし、黒人以外でも
Hi Mrs. Walterrrr. (p.14)
(やあ、ウォオルターさぁぁぁん)
みたいな規範を逸した表記は多々あります。
人が笑い続けていることを表現した

HA HA HA HA HA HA HA HA HA.
OH HA HA HA HA HA HA HA HA HA HA HA
HA HA HA HA. (p.13)

みたいな表記も出てきますし、会話文が文章の途中で分断されるという表現などもあります。原文を省略して拙訳文で紹介しますけれど、以下のようなものです。

グレッグ(主人公)(怒って)「ママ。ちくしょう。ドアから覗き見なんてしないでよ。ぜった」
ママ「私はたまたま通りかかって、レイ」
グレッグ「いに、あのことを人に話さないでよ。あ」
レイチェル「あの、、」
ママ「グレッグ、ちょっとムキになっているんじゃな」
グレッグ「れはプライバシーにか」
(p.100)

主人公のグレッグのセリフは「ぜったいに」が「ぜった」「いに」と分断され、「あれは」が「あ」と「れは」に分断もされています。つまり主人公が喋っているのもお構いなしに母親が発話している様子を描写している訳です。

また、この語り手は頻繁に読者に向かって語りかけます。
If after reading this book you come to my home and brutally murder me, I truly do not blame you. (p.170)
(もしこの本を読んだ後に、あなたが僕の家に来て僕をなぶり殺しにしても、文句は言えない。)

この他にも、この作品では、主人公の思考過程や誰かの発言が箇条書きで記されたり、文章が映画の台本の形式になったり、映画のレビューの形式になったり頻繁に書き方が変化してもいきます。

DyingGirlシナリオ形式

(シナリオ形式)

DyingGirl映画レビュー形式

(映画レビュー形式)

DyingGirl発言要約形式

(人物が喋ったことの箇条書き)

DyingGirl箇条書き形式

(思考過程の箇条書き)

 

DyingGirlニュース形式

(ニュース形式)

 

こうした、規範から外れた表記方法は、日本のライトノベルを読みなれた人たちならお馴染みのものばかりでしょうし、実際『ライトノベル表現論』(泉子・K・メイナード、明治書院、2012)には、ここで挙げた例に相当する表現は網羅されています。つまり「マンガ・アニメ風イラスト」の有無はともかくとして、『僕とアールと死んでいく女の子は』日本のライトノベルにかなり近い作品なのです。

この本はヒットし、映画化もされています。巻末の著者紹介によれば作者は大学に入るまで女の子と5分以上会話したことがなかったそうです。

(報告:太田)


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