アメリカのヤングアダルト小説(4)

前回は、YALSA(ヤングアダルト図書館サービス協会)が毎年発表しているトップテン・リストのヤングアダルト小説を見てきました。これとは別に最後に「売れ筋」を見ておきます。一番手っ取り早くamazonの関連カテゴリ(「ティーン向け」など)をいくつか見たり、ヤングアダルトを買い漁っていたために向こうからリコメンドしてきた、売れ筋と思える小説を何冊か求めてみました。

うち、2冊がジョン・グリーンの著作。書いた本は片端からベストセラーで、受賞歴も目白押しという売れっ子作家。第一作の”Looking for Alaska” (John Green, Dutton Juvenile, 2005)(邦訳『アラスカを追いかけて』白水社、2006)はニューヨークタイムスの子供向けペーパーバック小説のトップテン・リストに385週間(つまり7年以上)連続掲載されたという記録があります。

Looking for Alaska

フロリダの公立高校からアラバマの全寮制私立進学校に転向してきたマイルスというのが主人公。ルームメイトのチップスと意気投合し、友達でヒップホップの達人であるタクミと、美人で頭も良いけれど不安定なところがあるアラスカを紹介されます。物語の前半は、彼らと共に過ごす、やや荒っぽい寄宿舎生活が描かれます。

転校してきて早々に、マイルスは新入りの通過儀礼として裸にされて池の中に放り込まれるんですが、念入りなことに粘着テープで手足を拘束した上で放り込まれるという、かなり手荒な扱い。チップスやアラスカに敵対している「ウィークデイ・ウォーリアス」というお金持ち子弟のグループから目をつけられた結果なんですが、それに対する報復合戦というのがロクでもない。部屋に置いてあるスニーカーに小便をかけるであるとか、部屋の中にホースを突っ込んで放水するとか、シャンプーと整髪用ジェルに青い染料を入れておくだとか、先生のコンピューターをこっそり使って敵対側の親に偽の報告書を送りつけるだとか、そういうことをしでかしては部屋や隠れ家で気炎を上げ、酒とタバコに明け暮れる学校生活が展開します。初めてキスをした男女が、そのままオーラルセックスに挑むものの、やり方が解らず、女友達のところに聞きに行って歯磨きチューブで実演してもらうというような、可愛いというか、あっけらかんとした描写まであります。

そんな中で、主人公のマイルスは憧れのアラスカとの距離を詰め、キスするところまで行くのですが、その夜に一本の携帯電話がかかってきて、アラスカはヒステリックに反応。酔ったまま車で出かけ、ほとんど自殺のようにも見える交通事故で死亡します。

物語の後半は、アラスカという女の子が何を考えていたのか、恋人がいながらマイルスともキスした真意は何だったのか、そういうことに思い悩み、宗教学の授業を聞きながら死の意味を考え、チップスや仲間と共に事故の真相を追求していく過程を描きます。数ヶ月をかけて、彼らはアラスカの死を受け入れ、アラスカが卒業式用に温めていた悪戯のプランを実行し、気持ちを整理するというのが物語の粗筋になります。このアラスカのプランというのが実に下らないのですが、もしご興味があれば絶版になっている邦訳を手に入れるか、ネットの英語のサイトで検索していただければと思います。(あるいは製作が遅延していた映画が完成すれば、それで見られるかもしれません。)

この話は、著者の実体験がかなり色濃く反映しているとされおり、著者の在学中に似たような生徒の交通事故死があったし、本の中に出てくる一連の悪ふざけも、実際に行われたものらしい。高校生の風俗を描くと共に、愛と死について思い悩む古典的な物語でもあります。

なお「アメリカのヤングアダルト(1)」で紹介した『僕とアールと死んでいく女の子』では、主人公は生存戦略として高校の中のどのグループにも深く関わらず、等距離を置いていましたが、「怯え過ぎじゃないか」と思う人もいたかもしれません。しかし、この本や他の学園ものYAを読んでいると(あるいは、アメリカの青春TVドラマを観ていただければ)現在のアメリカの学校の中のグループ間対立(あるいはスクールカースト)というのは、かなり半端無いんだなということはかなり容易に想像できます。

同じ作者による”Paper Towns”(Speak, 2012)(邦訳は金原瑞人訳『ペーパー・タウン』岩波書店、2013年)はフロリダのオーランドを舞台にした、やはり高校生たちの物語。

paper town

主人公の男の子(クエンティン、愛称はQ)の部屋の窓に、深夜、隣に住む幼馴染で同級生の女の子(マーゴ)がやってきて、「ミッション」を手伝えと強要してきます。恋人の浮気で「卒業間際の高校生活を台無しにされた」ことに対して復讐を誓ったんだそうで、一晩で11のミッションを完遂させるから、車を運転しろというのです。そのミッションというのがロクでもない悪戯ばかり。セックスしている真っ最中の元彼をパンツ一丁で浮気相手の家から追い出し、局部をパンツからはみ出させたまま路上を走っている様を恐喝用の写真に撮り、浮気相手の女の子の部屋にはナマズを放り込み、ボーイフレンドの浮気について沈黙していた友達の家や車の中にもナマズを放り込み、ついでにQを虐めていた同級生の家にも忍び込んで、片方の眉毛に脱毛クリームを塗り、、といった具合。最後は近所のディズニー・シーワールドに忍び込むという、もはや復讐とは何の関係もない「ミッション」。アザラシの水槽の前で、Qとマーゴは踊ります。

街中の何軒もの家をトイレットペーパで「飾り付ける」などの悪戯に同級生たちを動員するような、「超」がつく程のアクティブで、エキセントリックで、学校のカリスマ女子生徒で、幼い頃からの片想いのマーゴの「ミッション」に、Qは一晩中付き合うことで、憧れの彼女との距離を一気に縮めるのですが、その翌日に彼女は学校からも家からも姿を消します。

彼女が失踪するのは今までにも何回かあったし、その度に彼女の伝説が増えていたので誰もがまた戻って来るだろうと考えていたものの、何日経っても彼女は戻ってこない。そのうちに、Qはマーゴが自分宛に失踪先の手がかりを残していったのではないかと考えるようになり、友人のベンとレイダーの3人で捜索を始めます。Qの自室から見える場所にこれみよがしに新たに貼られていた一枚のポスター、そのポスターの元になったレコードジャケット、そのレコードの曲名のひとつにマークが書き込まれ、曲名が示すホイットマンの詩集『草の葉』の中に青と緑のマーカーで示された詩句、、、そうやってマーゴの残した手がかりを追っていくうちに、Qはマーゴという人間のそれまで知らなかった一面を知っていくことになります。幅広い音楽の趣味を持っていたことも、廃墟の中で一人で時間を過ごすことを好んでいたことも、学校の誰も知らなかったし、幼馴染のQも想像すらしていませんでした。

Qは『草の葉』を読み込むことで、マーゴが何を考えていたのか知ろうと時間を費やしますが、彼の身の回りでは卒業を控えた最終学年の馬鹿騒ぎが同時進行し、友達のお調子者のベンは待望のガールフレンドを得て、プラム(卒業記念のダンスパーティ)にカップルで出席できることになって浮かれ、狂騒的に物語は語られていきます。卒業式の直前になってQはマーゴの居場所を突き止め、卒業式を放り出して仲間とともに、車でフロリダからニューヨーク郊外まで20時間かけて高速道路を疾走。そんな物語です。

キャラの濃い女の子に振り回される平凡でゲームが好きな弱めの男の子が主人公という設定、高校生の馬鹿騒ぎのエピソードが随所に挟まれるところ、途中でいなくなった女の子の実像を物語の後半で追い求めるというプロットの立て方などは『アラスカを追い求めて』と同様です。ただ、作者の実体験が色濃く反映したらしいデビュー作よりは、『ペイパー・タウン』のヒロインはキャラの造形が進んでいるように思えます。日本のライトノベルを読みなれた目で見ると、マーゴが涼宮ハルヒに重なったりもするのです。他にも友達のレイダーはウキペディア(作中では「オムニクショナリー」ですが、どうみてもウィキペディアです)の編集に身も心も捧げていて、いつ電話しても「今、××の記事の編集荒らしを修復したところだ」みたいなことしか言いませんし、親はギネスブックに載るくらいのブラックサンタのコレクターで、家はブラックサンタだらけでガールフレンドを家に呼べないと嘆いている。ついでに書いておくと『アラスカ』の主人公は偉人伝に出てくる「臨終の言葉」コレクターだし、ルームメートのチップスは、万国の首都を丸暗記していて、総人口も丸暗記している最中でした。このあたりは、アメリカのコメディ・ドラマに綿々と受け継がれてきたスクリューボール(変人)・コメディーの影響のように思えます。(もっとも、物語の途中からキャラの裏側にあるヒロインの<内面>が焦点化されるあたりは、キャラ小説の枠には入ってないことも書いておきます。)

 

何よりも、主人公による「語り」はライトノベルを彷彿とさせるところがあります。もちろん「若い主人公による一人称の語り」というのはアメリカではサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』あたりに遡れる古い伝統だし、日本だって庄司薫『赤ずきんちゃん、気をつけて』や栗本薫『ぼくらの時代』あたりにまで遡れ、今に始まったことではありません。ただ、メイナード・泉子『ライトノベル表現論』で指摘されているような、心内会話文と実会話の連続であるだとか、実発生音の表記であるだとか、その種のメイナードが言うところの「語り手が読者に対して親しさを演出する」表現が、これらの作品に頻出していることは確かなのです。俗語表現はかなり多いですし、方言も頻出します。

例えば、テレビゲームをやりながら登場人物が喋るシーンでは、主人公への返事とスクリーンへの罵倒が入り混じったセリフになります。

レイダーは僕の話に支離滅裂な返事をした。リザレクション(引用者注:TVゲーム)をプレイ中だとこうなる。「おれはマーゴがいなくなった理由だってわからない。単なる六時の方向に小鬼だおいなにやってんだレーザー銃使えよ失恋とかじゃないの?マーゴはそういう地下室の場所は左だ方面には動じないタイプだと思っていたけど」(邦訳『ペーパー・タウン』p.133)

引用したのは邦訳ですが、原文でもピリオドやコンマを欠いた罵倒文が挿入されていました。ものを食べながらの会話では、

“Dude,” Takumi responded, “yaw guhwend,” and then he swallowed a bite of food, “is a Weekday Warrior.”   (“Looking for Alaska” p.23)

「よう、」タクミは応えた。「おむぁぇのぐぁーるふれんどだって」と言ったところで口の中を飲み込み「ウィークデー・ウォーリアだろう」。

みたいなセリフが出てきますし、1行段落文も出てきます。

To me. (“Paper Town p.133”)

僕に。(邦訳『ペーパー・タウン』p.166)

酔っ払った同級生がわめき散らしている様は

“YES YES YES YES YES YES YES YES YES YES YES YESSSSSS!!! YES! YES!” (“Paper Town” p.177)

のように表現されます。心内会話文は随所に出てくるのですが、

「(…) Qはみんなに好かれてるなんてどうでもいいんでしょう」

そうともいえるし、そうじゃないともいえる。「僕は自分で思うより気にしてるよ。(邦訳『ペーパー・タウン』p.230)

のように、相手からの問いかけに対して、まず心内会話で受け、それから実際の発話文が続くというようなことも行われています。

なお、この二つの小説は古典文学への言及がかなり多い。『ペイパー・タウン』では『草の葉』の解釈が物語の途中で延々と語られることになるし、『アラスカを追い求めて』もアラスカが大変な読書家なので、文学作品の引用が頻発します。そしてそれが、物語の進行にも重要な役割を果たすし、読者に対する一種の文学案内にもなっています。まるで、日本のラノベで『文学少女』が果たしたような感じでした。

このほか、ジョン・グリーンには”The Fault in Our Stars”(邦訳『さよならを待つふたりのために』岩波書店、映画邦題『きっと星のせいじゃない』2014)という肺癌のヒロインと片足の主人公が旅をする純愛小説もあったりします。

これらのアメリカの青春小説は確かに「ライトノベル」ではないんですが、しかし、癖の強いキャラクターの配置や、プロットの立て方(ex.女の子に振り回される男の子)、語り、そういった個々の要素は、日本の(ライトノベルを含む)若年者向け小説と共通するところがいくらでも出てきます。

アメリカでライトノベル翻訳がなかなか普及出来なかったのは何故なのか。それを考える上では、こういった既存の物語文化が作り上げていた基盤みたいなものを知っておかないと、なかなか答えは出せ無いのではないかと思います。

(報告:太田)

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