アメリカのヤングアダルト小説(1)

日本のライトノベルのアメリカ進出がアニメや漫画に比べると苦戦しているという話を以前、書きました。その理由として、「アメリカ市場には、すでにヤングアダルト小説という市場が成立していたから」という説があるそうです。

実のところ、この説の出所が私にはよく分からないのですが、言われてみるとそんな気がすることも確かです。以前、アメリカのファイトノベル翻訳事例を紹介した際に、『涼宮ハルヒの憂鬱』の翻訳は少女小説として受容されたのではないかと私は書き、その傍証としてアメリカの少女小説の売れっ子作家だったメグ・ギャボットの『プリンセス・ダイアリー』だとか『メディエイター』といった小説を引き合いに出しました。メグ・ギャボットの小説を読んでいると、癖のある(キャラが立っている)登場人物であるとか、奇矯なプロット、ジャンル横断的なプロットなど、日本のライトノベルの雰囲気と似たところがあるのです。以前の紹介の繰り返しになるかもしれませんが、両作品の紹介をしておきます。

たとえば『プリンセス・ダイアリー』は、ヨーロッパの小王国の皇太子が癌で睾丸摘出したために、世継ぎが残せなくなってしまい、若い頃のアメリカ留学中に恋人に産ませた女の子に王位継承権を与えることになったというところから始まるシンレデラ・ストーリーですが、「癌で睾丸摘出」みたいな、あられもない小ネタがバンバン入ってきます。主人公のおばあさんに当たる王女様が、孫娘に「上流階級のたしなみ」のお手本を示そうとしてマンハッタンの街中で浮浪者に慈善を施すと、その浮浪者がいきなり自分の局部を露出したり、、、この小説を原作にしたディズニーの映画では、そういった下ネタは全て無視されましたけど、この種の適度に下品な話が入ることで楽しめる本であることは確かです。

『メディエイター』は幽霊が見える女の子の話ですが、革ジャンを着こなして学校でファッションリーダーになっている主人公は妙に乱暴です。いきなり幽霊の胸ぐらを掴んで蹴りを入れながら成仏を強要したりするのです。(少し古い読者としては「幽霊の胸ぐらって掴めるんだろうか」とツッコミを入れたくなるようなシーンですが、日本マンガの『Breach』は冒頭から主人公が幽霊に蹴りを入れてましたよね。)この主人公、インターネット検索で調べたブードゥー教の降霊術をやって指南役の神父さんから嫌な顔をされたり、イケメンの幽霊と恋仲になったり、そのイケメン幽霊の過去を探りにタイムトラベルしたり、やりたい放題。コメディ、ロマンス、怪奇、タイムトラベルとジャンル横断的にネタを投入していく語り口は、日本のライトノベルに大変近いものがあります。

ということで、「マンガやアニメ風のイラスト」の有無を置いておけば、ライトノベルっぽいジャンルはアメリカでは既に成立していたのではないか、と私は感じていました。もちろん、それがライトノベル翻訳小説の導入障壁になったというのは少し短絡的です。似たような作品群がすでに有ったのであれば、導入は容易だった筈とも言えるのですから。ただ、アメリカの10代の読者たちから見て、ライトノベルという小説群は内容的にそれほど目新しく無かったんじゃないでしょうか。そんな想像はつきましたが、この話はそのままになっていました。本当は、もうちょっとアメリカのヤングアダルト小説を読んでみないと何かが言えるわけじゃないのに、私は実物を読んでいないのですから。

昨年夏にたまたまアメリカに行った際に、アメリカの書店でグラフィックノベル(マンガ)の書棚やヤングアダルトの書棚を見て回り、平積みになっていた本を幾つかチェックし、Amazonで購入してみたのですが、これが中々面白い。今回、何冊か紹介しておきます。

DyingGirl表紙

一つ目はJesse Andrews ”Me and Earl and the Dying Girl” Anulet Books, 2012(『僕とアールと死んでいく女の子』)。最初、このタイトルを見たときに”Me and Real and the Dying Girl”(『僕とリアルと死んでいく女の子』)と読んでしまい、「なんだ、この中2病っぽいタイトルは!」とか思ったのですが、よくみると”Earl”で、これは主人公の友達の名前でした。

とはいえ、ハイスクール最終学年の男の子が語り手となって、白血病で死んでいく同学年の女の子との一件を語るという、ベタといえばベタな話です。まるでアメリカ版『地球の中心で愛を叫ぶ』(片山恭一)じゃないかと思いきや、主人公は死んでいく女の子について恋愛感情を持っていないし、話はラブストーリーとしては展開しないと作中で何度も繰り返します。

冒頭はこう始まります。
「起こったこと全てを理解してもらうためには、高校はクソだという前提から始めなくてはいけない。この前提を受け入れてもらえるだろうか?もちろんだろう。高校がクソだというのは普遍的真実だからだ。実際、高校というのは人生の基本的実存的問題:クソみたいに最悪な場所で人は如何に生存が可能か?が最初に導入される場所であるからだ」

続いて主人公は通っている高校とその地域、そして生徒たちの社会階層を概説した上で、学校の中がグループに細分化され互いに排斥し合っている様子を事細かに描写していきます。教会系グループ、黒人スポーツ系、秀才系、演劇系、ドラック系、ギャング系、バンド系、、、そういう学校内勢力関係の中で、主人公はどのグループにも属さず、かつ全てのグループと疎遠にもならない程度に軽い挨拶程度の友好関係を保ちながら、学校の中を渡り歩くという戦略をとって生活しています。こうなるとスクール・カーストを描いた『野ブタを。プロデュース』(白岩玄)であるとか『桐島、部活やめたってよ』(朝井リョウ)のような小説にも思えてくる。

その一方で、この本にはキャラクター小説的な側面があります。学校のマッカーシー先生はスキンヘッドで二の腕はタトゥーで覆われ、何事につけ「事実」にこだわる先生。保温器にいれた「ご神託を伺うための」ベトナム・スープを一日中飲んでいるのですが、どうもマリファナ入りスープらしい。主人公の父は、音大の教授だけど一学期に一コマか二コマしか授業を担当しておらず、いつも家にいて毛布に穴が開いただけのようなムームーを着て、リビングルームの揺り椅子に揺られて壁を見つめ、飼い猫に話しかけています。80年代にパーティー漬けの生活を送ってドラッグとアルコールで脳味噌がイカれたんだろうというのが息子の推測。母親は元ヒッピーで、イスラエルに住んでいた時期があり、息子には詳しいことを話さないものの、ユダヤ人なのにサウジの王族をボーイフレンドにしていた時期がどうもあったらしい。今は、夫には好きにさせて、自分は十代の若者をイスラエルのキブツに送り込むNPOの仕事をしています。これが正しいと思ったら、他人がどう思おうとそれをやり通してしまう強い意志の持ち主。というか、傍迷惑なおばさん。

ともかくも主人公が、ある日部屋でパソコンの壁紙に映ったヌード写真に勃起したペニスの処置に困っているところに、この母親がやってきて、幼馴染のレイチェルが白血病であることを告げ、今彼女は友達が必要な時だから彼女に電話をしろと強要します。母親に逆らったところで益が無いことを知り抜いている主人公は、渋々レイチェルに電話をかけ、無理矢理に会話を繋げようと苦戦する主人公と、それをそっけなくあしらう彼女とのあまり盛り上がらない会話が、ずるずると続いていくのがインストーリーといえばメインストーリとなります

ところで、主人公は同級生で黒人のアールと二人で10歳の時から映画を撮っていて、それを学校では秘密にしています。崩壊家庭でヤクの売人などをしている義兄たちと生活しているアールと、中産階級の主人公は普通なら友人関係は成立しそうにないのに、二人の映画共同制作者としての関係は強固に維持されています。彼らがこれまで撮ってきた映画というのが以下のようなものばかり。
『その後に黙示録』:バンダナを被って水鉄砲を持ったイールがアップになって写り、カメラに向かって、世界の終わりはいつ来るんだと尋ね、「まだ先だよ」という返事に対してカメラに向かって罵りまくるのを延々繰り返すだけ。
『スター・ピース』:砂箱の中に置かれた2体のロボットから、君は念力が使えると話しかけられたルーク・クレージーバドアスが水鉄砲を持ってバイクに跨り一般人を追い掛け回して警察に捕まる。本当に警察に捕まって未完成。
『ヘロー、グッド・ダイ』:ソックパペット(靴下人形)のジェームスボンドがベッドで目覚めると、その横で寝ていた美女もソックパペットだった。
『キャット・アブランカ』:動かない猫が映っているだけ。
『バットマンV.S. スパイダーマン』
バットマンとスパイダーマンが、それぞれ飼っているコウモリと蜘蛛を戦わせようとするが、両者はまったく戦おうとしない。

どの映画もまったくプロットが無いのは、10歳の時に父親のDVDで観た『アギーレ 神の怒り』というアートシネマを二人がいたく気に入っていた影響らしい。つまり、この二人はかなりコアというか、変な映画少年ということになります。

ある日、マッカーシー先生の昼食のフォー(ベトナム麺)を盗み食いした二人は、そこに入っていたらしいドラッグでハイになってしまい、その勢いで二人でレイチェルに会いに行き、アールが映画作りのことをレイチェルに話し、彼女に二人が製作したDVDを貸すことを約束します。

不思議なことに、レイチェルは二人のDVDを気に入ったらしく病床で繰り返し観るようになります。そのうちに、DVDの内容は秘密にしてあるにしても、主人公とアールの二人が映画を作っているという話がレイチェルから友達に漏れ、その友達が主人公に「レイチェルのために映画を作ってよ」と提案してきます。それが、同級生の中でもとびきりにイケてる女の子で、昔に好きだったこと(そしてあっさり振られたこと)があったものだから、主人公が曖昧に返事すると、それがあっという間に学校中に伝わって主人公は後に引けなくなります。

“Rachel the film”と題された映画の製作は困難を極めます。同級生やら先生のメッセージビデオをつなぎ合わせれば何とかなると思いきや、誰も彼もロクなメッセージを録画してこない。それを編集したところで、死んでいく女の子のためになるとは、どうしても思えない。レイチェルのライフヒストリーをドキュメンタリーとしてまとめようとして、遠くの街に住む祖父母に電話でインタビューを申し込むものの、耳が遠いのかボケかけているのか話がまったく通じない。ホームビデオを何本か借してもらうものの、レイチェルがあまり幸せでは無い(特に離婚した父親との関係が良さそうでない)ぱっとしない少女だったことが分かるだけで、死に際に届ける映画としては使えそうもない。白血病を擬人化して、クレイアニメ(コマ撮り実写アニメ)で白血病(ダース・ベイダー)とレイチェルとの戦いを描こうかとも計画するものの、膨大な時間がかかるのでレイチェルが生きているうちに完成は不可能。いくつものプランを考えては破棄していく内に、主人公の学校の成績は急降下。煮詰まった主人公がアールと初めての大喧嘩もやった挙句に、製作者二人の気持ちをカメラに向かって語るだけの無編集ビデオ・レターが”Rachel the film”としてDVDに焼かれてレイチェルに渡されます。

ところが、レイチェルが寝ている最中に盗み見したレイチェルの母親がこれを主人公の母親に伝え、主人公の母親は学校の先生に伝え、学校の先生はこれを学年集会でサプライズ上映します。主人公がしどろもどろにカメラに向かって語るだけの「映画」は、これを鑑賞させられた同級生たちの不興を買います。全ての勢力と等距離外交することによって維持してきた、主人公の学校内のポジションは失墜し、彼は引きこもってしまい、しばらくしてレイチェルは死にます。

死んでいく女の子のために伝えるべきメッセージは、本当にあれで良かったのか主人公が延々と悩み続けるシーンや、女の子の死を知った時のやるせない気持ちの描写などは、「白血病文学」の典型というか常道ですが、それを恋愛感情から切り離して描いたところに、この小説の妙味はあります。

以上がこの物語のあらすじなのですが、文章も妙な癖があります。YenPressの翻訳ライトノベルなどでは、ほとんど見られないfuck, shitなどの俗語表現はかなり多いですし、アールの言葉遣いには特にそうです。つまり、黒人の「役割語」をアールは喋っていることになります。

”Fuckin nobody, Errybody at school give a shit about you, man.”
(「クソッタレに誰も居ないんだよ。学校のぜーんぶがテメエにクソしてんだ」)。(p.249)

ここではEverybodyがErrybodyになっていますが、この他にもaboutがbout、becauseがcuzなど様々な訛りの表記が見られますし、黒人以外でも
Hi Mrs. Walterrrr. (p.14)
(やあ、ウォオルターさぁぁぁん)
みたいな規範を逸した表記は多々あります。
人が笑い続けていることを表現した

HA HA HA HA HA HA HA HA HA.
OH HA HA HA HA HA HA HA HA HA HA HA
HA HA HA HA. (p.13)

みたいな表記も出てきますし、会話文が文章の途中で分断されるという表現などもあります。原文を省略して拙訳文で紹介しますけれど、以下のようなものです。

グレッグ(主人公)(怒って)「ママ。ちくしょう。ドアから覗き見なんてしないでよ。ぜった」
ママ「私はたまたま通りかかって、レイ」
グレッグ「いに、あのことを人に話さないでよ。あ」
レイチェル「あの、、」
ママ「グレッグ、ちょっとムキになっているんじゃな」
グレッグ「れはプライバシーにか」
(p.100)

主人公のグレッグのセリフは「ぜったいに」が「ぜった」「いに」と分断され、「あれは」が「あ」と「れは」に分断もされています。つまり主人公が喋っているのもお構いなしに母親が発話している様子を描写している訳です。

また、この語り手は頻繁に読者に向かって語りかけます。
If after reading this book you come to my home and brutally murder me, I truly do not blame you. (p.170)
(もしこの本を読んだ後に、あなたが僕の家に来て僕をなぶり殺しにしても、文句は言えない。)

この他にも、この作品では、主人公の思考過程や誰かの発言が箇条書きで記されたり、文章が映画の台本の形式になったり、映画のレビューの形式になったり頻繁に書き方が変化してもいきます。

DyingGirlシナリオ形式

(シナリオ形式)

DyingGirl映画レビュー形式

(映画レビュー形式)

DyingGirl発言要約形式

(人物が喋ったことの箇条書き)

DyingGirl箇条書き形式

(思考過程の箇条書き)

 

DyingGirlニュース形式

(ニュース形式)

 

こうした、規範から外れた表記方法は、日本のライトノベルを読みなれた人たちならお馴染みのものばかりでしょうし、実際『ライトノベル表現論』(泉子・K・メイナード、明治書院、2012)には、ここで挙げた例に相当する表現は網羅されています。つまり「マンガ・アニメ風イラスト」の有無はともかくとして、『僕とアールと死んでいく女の子は』日本のライトノベルにかなり近い作品なのです。

この本はヒットし、映画化もされています。巻末の著者紹介によれば作者は大学に入るまで女の子と5分以上会話したことがなかったそうです。

(報告:太田)

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アメリカのヤングアダルト小説(1) への1件のフィードバック

  1. 引き込まれる記事でした.ME and EARL and DYING GIRL 話題になっていたのは知ってた.そんなに革新的とは.

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