ラノベ史探訪(15)-90年代のとある記事から

現在では当たり前のように使われるライトノベルという名称ですが、その誕生は遡ること22年前、1990年頃の出来事になります。すでにご存知の方も多いように、名称誕生の舞台となったのは当時のパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」だったと言われています。その経緯についてはシスオペであった神北恵太氏のブログ記事や、新城カズマ氏の『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク新書)などに詳しいので、興味のある方はぜひチェックして見て下さい。

さて、パソコン通信の世界から誕生したライトノベルという名称が、現在のように一般化するまでにはそれなりに長い時間を要しています。しかし一般化するまでの間、類似する名称(「ジュヴナイル小説」「ティーンズ小説」「ヤングアダルト」など)があるなかで消えずにいたということは、どこかで脈々と使われ/語られ続けていたことを意味します。事実、急速に一般化が進んだ2004年前後のブーム以前にも、雑誌・新聞の記事、インターネットの掲示板やHPなどにチラホラ登場していました。今日はそれらのなかでも比較的初期のもので、現在にも通じる興味深い指摘を行っていたとある記事についてご紹介したいと思います。

(「本の森の散策」:「読売新聞」1994年7月25日)

上は1994年7月の「読売新聞」に掲載された読書エッセーです。執筆者はSF作家であり、朝日ソノラマ文庫や集英社コバルト文庫でも執筆経験を持つ大原まり子氏で、記事では『十二国記』シリーズなどで知られる小野不由美氏、『月世界』シリーズなどで知られる麻城ゆう氏の作品を紹介しています。特に注目したいのは、記事の前半部全てがライトノベルへの言及に費やされている点です。同時期の言説のなかでも、これほど詳細な記述は珍しいと思われます。

ライトノベルとは不可思議な和製英語だが、軽い小説といった意味合いでつけられたのだろう。かつて集英社コバルト文庫などの一連の少女小説を「字で書いた少女マンガ」と批判した女性マンガ家を知っているが、ライトノベルを「字で書いたアニメ」だという人もある。まずキャラクターがあり、会話と改行が多く、ノリがよく、現実味がなく、内容は空疎、描写が必要な箇所になるとイラストがはさまって読者の想像をおぎなう。

以下は大原氏のライトノベルに対する見解です。

わたしは文章によって物事を描写し尽くすことこそが小説家の醍醐味(だいごみ)だと思っているが、文字どおりケタちがいの売れ行きを知って、そもそもライトノベルの読者は、普通の小説の読者とちがうのではないかと感じはじめた。アニメ・ゲーム世代の読者は、ひょっとすると文章による描写がなくても勝手に絵が浮かんでいるのではないか。送り手にも受け手にも、アニメ(やゲーム)という基礎知識あるいは共有感覚があってはじめて成り立つ創作なのではないだろうか。だとすれば、これらの小説は小説というジャンルを越境したニュータイプである。そうして、読んでいる間は楽しくても、「それで、どういう意味があるの?」と問い返すような読者には無用のものだ―それはたとえば野田秀樹の芝居のように、その場かぎりの楽しみをもって消費されるべきものなのだ。

文章の描写力を「小説家の醍醐味」とする大原氏にとって、文字通り「ライト」に大量消費されていくエンターテインメント作品(=ライトノベル)は違和感を抱く代物だったようです。少なくとも大原氏の考える小説ジャンルとは別種の存在、「アニメ(やゲーム)という基礎知識あるいは共有感覚があってはじめて成り立つ」「ニュータイプ」の小説だと捉えられていることが分かります。「売り上げが至上命令」で「主人公の年齢や語りの人称まで編集者から指定されることもある、生鮮食料品のように売れなくなったらすぐ絶版にする、新人はどんどん登用するが何冊か出して売れなければ切り捨てる、など少年マンガ誌の方法を導入」した「熾烈(しれつ)な競争の世界」であり、「このジャンルでは作家はものを創る人間として遇されていない」という指摘は…なかなか手厳しいですね。しかし、ライトノベルの商業的な一面を鋭く突いている指摘でもあります。また、「ここにあげた特徴は、ライトノベルに分類されるすべての作品にあてはまるわけではない」として、描写力に優れた女性作家の異世界作品を評価している点からは、今も昔もライトノベルが玉石混交状態にある様を窺い知ることができるでしょう。

異世界を構築しなければいられないファンタジーの要請の意味をこそ、わたしたちは考えなければならない。

今回紹介した大原氏の記事の主旨は、第一には「ライトノベルにジャンル分けされる作品のなかにも、描写力に優れた作品があることを紹介する」というものです。しかし一方では…売り上げ第一で、一時の娯楽にしかならない空疎な作品を大量生産する状況への批判と、文章の描写力の重要性を訴える部分が少なからずあったように思われます。大原氏の記事が書かれたのは今から18年前。もしかすると何らかの反響が当時見られたかもしれませんが…現在ライトノベルに親しんでいる私たちとしては、この指摘にどのような印象を抱くでしょうか?ライトノベルが爛熟期を迎えている今、あらためて考えてみたい問題のひとつかと思います。

〈参考〉

ライトノベルよ、どこへいく―一九八〇年代からゼロ年代まで ライトノベルよ、どこへいく―一九八〇年代からゼロ年代まで
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【文責:山中】

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